僕たちはどうしてこうも弱くなったのか? 優しさは傷つきやすさの裏返しだ

 明治維新の激動期や昭和のアップアンドダウンを生きた人びとを微かに覚えている。彼らに比して僕たちはいかにも卑弱である。その理由を思いつくまま挙げてみた。

 

1)かなり安全である。つまり、死亡率が低い。若い頃にポチポチと大事なヒトや身近なヒトが亡くなる経験ははるかに少なくなっている。地震津波などに遭遇することはあるのだが、戦争に駆り出されることはなくなった。これだけでも大きな違いだろう。

 

2)衛生的で栄養満点である。現在では病苦はかなり軽減されているのだ。

 多くの人は長期間の飢えや入浴できないことを未経験だろう。自然環境にじかに埋め込まれた社会で粗衣粗食のまま生きるなどという子供時代は、ほぼないであろう。

哺育器が都市サイズまで肥大化したような感じだ。

 

3)衣食住はミニマムが保証されてきた。従って最低限の礼節は青少年期に植え付けられるのだろう。生まれながらにしてホームレスの子はいないであろう。なるほど衣食住の格差は厳たるものがある。その格差を目にして親ガチャと差別化名称を編み出すのは

精神的な貧困の表出ではないだろうか。日本以外に目を向けるなら、生存ラインにギリギリの栄養不足にあえぐ児童は何百万人というのだから。

 

4)君しかできないという、後がないというミッションが少ない。べたに言うと働き甲斐や生きがいが簡単には見いだせない。命がけもしくは命を張るような仕事や出産というのは激レアとなっている。社会における生存競争も過酷ではなくなっている。

 

 哲学者の代表格である西田幾多郎の伝記で子供や妻を喪った不幸を指摘しているのを読むにつけ、それはあの時代の平均的な悲哀であったのではないかと思う。

 死が日常茶飯事であった時代における生の在り方は、21世紀の現代人の生とは大きく違っている。

 長い人生とその生活資金を気に病みながら生きる現代人は、遣る瀬無い存在になりきっているかのようだ。

 簡単に言えば、安定的に恵まれている政治&経済&衛生環境が、弱さのおおもとだ。

傷つきやすさやその裏返しとしての優しさが瀰漫している。

これは豊かさの成果なのだろうか、それともただの衰弱なのだろうか。

 

【参考文献】

アメリカのz世代は傷つきやすさをくっきりと描き出している。

日本と異なる次元の過保護が生み出したヤングラディカルの社会運動は退行的なようだ。対抗文化のような反逆精神はそこには無い。