痴呆老人の世界存在をたずねる

 夏休みに祖父母の家を孫であった自分がたずねた時をよく思い出す。明治期の名残とどめた黒い板敷きの台所は薄暗い。よく使うであろう砂糖入れのつまみには埃がうっすらとたまっていたのが目に焼き付いている。掃除を欠かせぬ祖母にはそうした汚れは存在しないかのようだ。

 老化が進めば老眼になる。見損ない、見えないものがじわじわと増大するのだが、その変化に気がつかなくなる時がくる。それが痴呆というものだ。

 それだけのことなのだが、それは生活世界の微細構造と拡がりを周辺から浸食する。見えないものは忘れ去られ、忘れ去られたものは存在しない。老人の買いだめ癖もこのあたりが要因になるのであろうか。

 これを第二ペルキピ原理と仮に呼んでおこう。esse is percipi に由来する。

 存在することは知覚されることであるがバークリーの主張だった。ここではそれを本歌取りして、知覚されないものは存在しないという風に表現しただけだ。

 マスクや包帯、ペーパータオルなどの買い置きは収納庫の奥、棚の隅、引き出しやタンスの奥に山ほど仕舞い込まれていた。必要性を刻印された商品については自動的に買い込んでしまうのはいいとしても、それが家の中にあふれるというのは仕舞い込みが第二ペルキピ原理により「存在しない」ことにされたことに起因するのだろう。

かくして、見当たらないものは所有していないので買い込んでおこうとなる。

 情報のデジタル化は個人にとってどのような影響を及ぼすか、とりわけ「知覚されないものは存在しない」状況に入り込む自我にとってどうかが、ここで論じたいことである。

 デジタル化は記憶を外在化する、しかも、不揮発にするから、記憶の拡張となるというのが基本的な論調だろう。脳天気なことに「ハードディスクは第二の脳」だなんて平成の初期の頃は主張していた。むろん、それは多くの健全なる精神の持ち主にとっては正しいかもしれない。

 しかし、ここでの対象は老化する精神であるので、そうは問屋やが卸さない。

デジタル化はLEDやタッチパネル画面の後ろ側に隠されてしまう。そう、デスクトップにすべての情報を展開することはない。どこかに収納=仕舞い込むのだ。かくして、知覚されないものは記憶のうちからも排除されるだろう。探しに行かない限りは知識は見いだされない。これはプラトンが対話編『メノン』で言っていなかったか?

 デジタル化は何の助けにもならない。むしろその不揮発性ゆえにあるという安心感で、忘れ去ってしまう虞すらある。

 老化する精神世界を狭めるのに悪影響を及ぼすというのがここでの結論だ。そしてそれは体験していることでもある。去る者は日日に疎しとは言ったものだ。デジタル化しておくことは去る者にほぼ近いようなのだ。

 

 

 

 

 

痴呆老人予備軍の必読書

 冒頭の秀逸な老婆の会話はお笑い系のボケと突っ込みであろう。

A あんたはいくつになっても色自でたっぶりしてきれいだね。私なんかごぼうみたいで恥ずかしいよ。
B そりゃあたりまえだよ。風船だってそうだろうよ。膨らませりや色だって薄くなるんだよ。あんたも、もうちょっと肥ったら。
A あっははっは、それも道理だね。

私たちの日常のなかに痴呆性は埋め込まれている。

 

 

今は再評価されているバークリー。「自我」のあり方を考えるうえで観念論はかなり役に立つと思う。ひょっとしたらあの大哲学者カント以上に現代的かもしれない。