都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)は「三国史記」にも出ているのか

 歴史時代になっても記紀には得たいの知れない人物が出入りする。
 日本書紀の巻六「垂仁天皇」の条に、越(新潟から越前まで)に頭に角が生えた奇体な人物が漂着した。今の敦賀市付近とされる。

崇神天皇の御世に、額に角の生えた人が、ひとつの船に乗って越の国の響鰤の浦についた.それでそこを名づけて駕ぽという。「何処の国の人が」と尋ねると、「大加羅の王の子、名は都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)またの名は宇斯岐阿利子智干岐(うしきありちかんき)という

 垂仁天皇の三年にこの人物は本国に帰りたいと申し出る。ツヌガアラシトとは変わった名前である。「つのがあるひと」の古語かもしれない。
 別の名のほうも変だ。そもそも二つの名に共通性がない。地元民にはたいそう偉丈夫に見えたのだろう。地元で畏怖され、それが敦賀という地名に継承されるのだ。

赤織の絹を阿羅斯等に賜わり、元の国に返された.だからその国を名づけてみまなの国というのは、この縁によるものである。

 つまり、釜山というか伽耶の人であったのだろう。この布が「みまな=任那」の語源だというのは「風土記」的発想である。さらに続けて日本書紀はこの布を新羅が奪ったことを書き記している。つまり、新羅に渡ったわけである。
 さらに『日本書紀』の一書ではこうあるという。

童女を婦とし、そのあとを追って日本に来たが、童女は難波に至り比売語曾社の神となり、豊国の国前郡に至り比売語曾社の神となって、二処に祭られた

 つまり、あとから奥さんが追っかけてきたのだ。それが神社の神に祭られたとある。

 類似の出来事が『三国史記』にも出ている。『三国史記』は記紀と同じ位置づけにある朝鮮の歴史書である。
 日本書紀と同じではないが、日本と朝鮮をまたいで生きた人物が描かれているのだ。朝鮮半島から日本に渡り、一切れの布が半島に戻る。
 「東海」とは半島の日本海側のことだ。新羅日本海沿岸の北陸や山陰はかねてより半島や大陸と神話時代から交流がある。


 さて、もう一方の『三国史記』では新羅の神話時代の出来事だ。東海に延烏(えんう)という漁師がいた。磐に乗って大和までやってくる。延烏は大和のに地で偉くなり、妻の細烏を呼び寄せる。
 どうしたことか、新羅では日月が空から消え失せてしまった!
 実はこの夫婦は日月の精であったのだ。新羅王は日本から二人を呼び迎えることにした。延烏はそれを聞いても今更に帰国もできないが、せめてもの救いということで綾絹を使者に手渡した。新羅王がその布をお祭りすると日月が再び輝きを取り戻した...。

 夫婦ともども日本に来朝し、「布」が新羅に渡るという出来事が上記の日本書紀と共通性があることに注意を喚起したい。
 どうであろう。
 都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)と延烏(えんう)は、同じ人物を日朝両方から別々に描いたといえないだろうか?
 それも不思議ではない。なぜなら、日本書紀の編纂者は百済からの渡来人とされ、大和朝廷史書としての体裁を整えるのに当時の百済新羅等の史書を参照したと歴史家たちは指摘しているからだ。
 でも、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)と延烏(えんう)の同一性や類似性の指摘は他の歴史関係者の本では見たことがなかったので、ここに書き残す次第です。


【参考資料】

三国史記 1 新羅本紀 (東洋文庫 372)

三国史記 1 新羅本紀 (東洋文庫 372)

日本書紀〈1〉 (岩波文庫)

日本書紀〈1〉 (岩波文庫)