神功皇后のこと

 仲哀天皇の皇后で応神天皇の母である神功皇后は、いまだに実在と神話のハザマに置き去りにされている。第十四代天皇である仲哀天皇神功皇后に取り憑いた神(住吉大神)の託宣を軽視したため薨去
 あとを継いだ神功皇后応神天皇を孕みながら、新羅征伐を断行したとされる。応神天皇の実在性は確かなものとされているが、どうも神功皇后はあいまいな存在なままのようだ。ましてや、新羅征伐などというと、そんなことはありえないという半島系の史家が多いこともあり、その存在はますます怪しくなってくる。
息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)という名前(和風諡号)も仲哀天皇のタラシナカツヒコ(足仲彦・帯中日子)と並んで、なんだかフワフワした命名だと感じる。

 それと『三国史記』(古代朝鮮の史書)の新羅の編年部には、それらしい事件がない。
新羅の王は助貫王→汕解王→味鄒王が記紀神功皇后時代にほぼ相当するが、倭が攻め込んだという記事がない。ただ、百済との戦争は頻発しているので、その同盟軍ではあり得たかもしれない。
 いずれも大和政権が新羅を懲らしめた、ような事績はない。
では、記紀の著者たちは誰に見立てなのか。「卑弥呼」だとされる。日本書紀の作者たちは魏志倭人伝における卑弥呼の記載は知っており、日本書紀の編年を行う際に中国正史の年号をもとに手元の事件を組み立てたのだが、神功皇后の年代は西暦換算で230年頃となり、確かに卑弥呼の時代と呼応している。
 もしそうなら、新羅征伐など卑弥呼は行なってはいないことになる。歴史的には、そう見える。
だが、九州における各種伝説は神功皇后に関わる幾多の痕跡を残している。
 鎮懐石八幡宮応神天皇の誕生を遅らせるために皇后が携えていた「石」を祀る。

 伝説をそうまでして可視化したいのか。昔の人にとっては神話的幻視というか夢想を現実化する機構として神社はあったのだろう。

 もう一つ不思議なことは息子の応神天皇八幡神として祭られてゆくのだが、それは戦闘的な武神になり変わる。ところが宇佐八幡神の地元の民は渡来民、新羅からの帰化人たちなのだ。
 新羅征伐の母親、神功皇后とその息子、応神天皇八幡神として渡来民に尊崇されるって、どういうメカニズムでそんな愛憎関係のもつれが生じたのだろう?


【参考文献】

 全国の寺社古跡を丹念に調査して伝説と関連付けている稀書。上記の写真もここから拝借。

日本全国神話伝説道指南(みちしるべ)

日本全国神話伝説道指南(みちしるべ)

 『三国史記』等の