百太夫と女性史家、脇田晴子氏

 『梁塵秘抄』に

「遊女の好むもの、雑芸鼓小端舟、大傘翳艫取女、男の愛祈る百太夫

とある。
この百太夫兵庫県西宮の西宮神社末社に百太夫社というのが残り、西宮傀儡子の職能神というべき社であることが知られている。
 脇田晴子氏は百太夫大江匡房の『傀儡子記』の百神と同じものとする。大江匡房の描く「流浪の民」は美濃の青墓を棲家としていた。また、同じ大江匡房の『遊女記』の描く難波の遊女たちは傀儡子から分かれた支族であろうとしている。なればこそ、百太夫の氏子は西宮にも地縁があったたと言うべきだろう。
 さて、「百太夫」は何者か。
 民俗学者でもあった折口信夫は「偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道」という注目すべき論文で

「くゞつの遣うた人形は、くゞつ自身の仕へる神であつた。」とし、「くゞつは海部アマベの一部であるが為に、海部の祀る神は、海部降服の後は、主神たる八幡神に対しては、精霊の位置に置かれた訣だが、其でも、彼等はやはり、祖先伝来の神に奉仕した。此がくゞつの仕へる百太夫である。」

としている。

 百太夫、それは境界の神、おそらくは道祖神であろうという研究者もある。

 西宮神社の裏手には「散所」という芸能民のアジールがあった。昭和初期に伝統の人形劇に見せられた竹内勝太郎がレポートしている。彼も淡路島まで足を伸ばして、百太夫あるいは人形のルーツを探った。彼でさえも百太夫がなにものかは明らかにはできなかった。

 遊女や傀儡が携えていた百太夫は、自分の空想ではオシラ様のような形状ではないかと思う。白太夫社なる神社が京都にある。北野天満宮の摂社ということだ。
百(ヒャク)と夙(シュク)がつながるのも被差別民の名称(夙)を思い合わせると意味深い。

 滋賀大学名誉教授であった脇田晴子氏は東日本の足柄の遊女に注目することで別のストーリーを組み立てた。この学者は東海道筋ぞいに残る遊女の痕跡から、足柄から美濃、美濃から江口、そして西宮にいたる芸能民ネットワークを幻視しているかのようだ。

 日本女性史研究の権威であった脇田晴子氏は女性の傀儡子についての中世史で新機軸を開いた。彼女が西宮市の生まれであったことが関係していないとは言えまい。


【参考文献】

芸術民俗学研究 (1959年)

芸術民俗学研究 (1959年)


  ちなみに、「君が代」は平安末期における芸能民の言祝ぎ歌が源だろう。
君が代は千代も住みなん稲荷山 祈る験のあらんかぎりは」によおうにお客の前でゲストを褒め上げることがイントロになる。脇田晴子氏が仄めかすように「君が世」は中世ではあらゆる主従関係で褒め上げにでる。明治時代以降、国歌にそれが変貌したのだから、今でも芸能民パワーは全開だろう。


日本女性史

日本女性史

 夏の夜は星空のしたで中世歌謡に浸るのも良し。