『フランダースの犬』と説経節の相似性

 時代と場所こそ違うが、ウィーダの『フランダースの犬』とわが国中世の説経節、つまり『山椒大夫』『小栗判官』『愛護若』などの作品群=口承芸能の語り物の間には、似ている所が多い。

 いってみれば、パトラッシュとネロは下層民である。いわゆるミゼラブルだ。
 しかし、もとはふつうの市民であり、幸福な時代もあった。それが一転、運命のつまずきによって天涯孤独の身になり、それでも老犬と少年は助け合いながら生き抜こうとするが、やがてああ無情、世間の冷たい仕打ちにより大聖堂で昇天する。
 同情にたる主人公が幸福な境涯から転落し、やがて聖地でもって、浄化されるという。
 この無常かつ非情のシナリオこそ、日本の民衆でいっときはポピュラーだった語り物の口説きの技法でもあった。中世の語り物を生業として人びとは漂泊の民であり、下層民でもあった。彼らは自らの情念を説経節の語りに転化させたであろう。
 
 『山椒大夫』は森鴎外の近代化された「安寿と厨子王」の小説となるが、説経節ではその非情性や苛酷さの陰影の深さは現代人の心が忘れ去った、「中世」の風景を体現しているといえる。その優れた論評は岩崎武夫の『さんせう太夫考』を参照してもらえればいいだろう。
 ここでは大阪の天王寺が世から見捨てられた下層民の最期の聖地となり、アントワープの大聖堂と同じように聖なるヒエロファニーによって、苦境のドン底の主人公は浄化されるトポスとなる。この聖地の存在が「語りもの」の普遍的な特質なのだと思えてくる。

 世は変わり説経節の流れはやがて人形浄瑠璃に移り、さらには歌舞伎への転換してゆくことになる。
 主人公の境涯の有為転変の悲劇性こそ、日本的心性に焼き付いて離れない刻印になっているのだ。
 だからこそ、わざわざベルギーのアントワープ大聖堂にまで出向いてサメザメと泣きいる外国人観光客、ほとんど唯一の国民としての日本人の心性が中世に造形されたのだと思うのだ。


参考書

さんせう太夫考―中世の説経語り (平凡社ライブラリー)

さんせう太夫考―中世の説経語り (平凡社ライブラリー)

誰がネロとパトラッシュを殺すのか――日本人が知らないフランダースの犬

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