われらの内なる古代人

 鶴見和子柳田国男の評論で「われらのうちなる原始人」と指摘した。レヴィ・ストロースの「われらの外なる未開人」の対比で彼女がもちだしたのだ。
 柳田民俗学のひとつの特徴を言い当てている。柳田の常民は、しかし、「原始人」というより「温順な中世人」と言い直してみたほうがいいであろう。彼自身、その「史料」以外の調査と比較であぶりだした「原=日本」は15世紀くらいまでの心性と暮らしぶりであった。
 それを、さらに言い換えてみたのが「われらの内なる古代人」である。折口信夫の直感が柳田の周到な調査と融合するとなれば、よみがえるのは「精神の古層」ではないか。

 この日本という国を、どこの国の人とも同じようにとりあつかうのは無理ですよ。こういう国はありません。こういう古代経歴をもった国はありません

 鶴見が引用する柳田の発言は一国中心的な国学者な思考に近いが、彼女の言うように果たしてインドは日本と同様な経歴であろうか?
 インドと対比してみよう。インドでは神仏習合は起きなかった。ヒンズー教は仏教やイスラムの侵攻にもかかわらず、その系譜を絶やすことなく近代まで多神教的な古層を維持してきた。そういう点ではインド人のほうがアルカイックな民族だ。
日本は石器時代の後半の縄文期の信仰を大陸由来の道教や仏教が上塗りしている。神仏習合があり、南方圏の信仰もそこには含有されている。
 岡正雄の指摘のように多層性がその特徴なのだ(インドのような純正伝統はない)

自分が思うには、日本人は古代性を帯びる以上に中世人の心性を多分に残存させているのではないだろうか?
 古代性は中世人の大きな殻に包まれてあり、中世さながらの振る舞いが現代日本人のうえにそのまま現れる、それが神道であり、ゆるキャラ祭りであり、コスプレという異形であり、放浪するホームレスですら漂泊民の影を帯びるのであろう。


 鶴見和子の米国的な柳田国男


評伝柳田国男 (1979年)

評伝柳田国男 (1979年)