バチガルピのSFの混沌のアジアと日本

 大航海時代の東南アジアで日本の女性はひときわ高く売買されていたという。
バチガルピの近未来(ねじまき少女)のエミコはその残像ではないかと思わせる。
 エミコは少子化に直面した日本の遺伝子工学が生んだ「新人類」である。
 『ねじまき少女』は2008年のヒューゴ賞&ネビュラ賞の受賞作だ。つまり、それなりに米国社会に受容されたSFということだ。ただの大衆小説ではない。

 その異質な小説世界での日本のイメージを取り出してみよう。ちなみに、この小説では日本が100回ほど言及されている。

日本人は実際的だった。年老いた国民にはあらゆる分野で若い労働者が必要だったし、それが養育所で育った試験管ベイビーなら、労働力として使うのは罪じゃない。日本人は実際的なのだ。

 それが日本企業の手を離れバンコクに置き去りにされて、隷属的な娯楽産業で搾取されているところは芸者ガールの日本の歴史と伝統を踏まえている。いわゆる「おもてなし」の文化に属する奉仕する女性というステロタイプ二重写しになる。

 この小説の見どころは、奇妙に歪曲された東南アジアの民族イメージが、米国人の視点からの類型がバランスよく配合されていることだ。
 悪賢く自分の営利を求めるホク・センは中華系あるいは華僑の代表を、王朝に忠誠を尽くしながら権力闘争を続ける将軍と大臣はタイの政争を鋭く反映している。
 日本人は企業の手先としてのみ動く、テクノロジーを駆使して奇妙なねじまき人形(ヒーチー・キーチー)をもてなし嬢として生産する。礼儀正しく規則を重んじ、個性に欠ける。工場生産と文化的洗練の混淆として「エミコ」のような人造物ができる。

どこかのいまいましい科学者が試験管のなかでDNAをミックスして肌をこんなにすべすべにし、あげくに体内に過剰な熱がこもる体を生み出してしまったがために、完壁に美しいけれども息が詰まりそうな肌に閉じこめられてしまったなんて知りたくなかった

 だが、登場人物の日本人「ヤシモト」(どんな漢字だ?)は言う。

「わたしたちはヒロコのような新日本人とともに働いています。娘は忠実で思慮深くて有能です。それに必要な道具です。農夫にとっての鍬、サムライにとっての刀のように必要なのです」

 それにしても、なんて型どおりの発現なんだろう!いかにも米国人の想像上のキャラの言い出しそうな内容だ。それが大半の米国人のイメージなのだろう。

 小説においてロボットは日本人の生活に溶け込んでいるのらしい。アジア的混沌のなかで一歩身を引いて独自な立ち位置にあるように見えるのが日本なのだろう。頼もしいことに、得体の知れない疫病が蔓延し、エネルギー資源が枯渇した近未来でも日本はモノづくりで生き抜いている。

「絹は好きか?」ナロンは自分のシャツに触れる。「日本製だ。日本では、いまでもカイコを飼ってるんだ」

 違法技術のにおいがぷんぷんしているのだ。しかし、日本人は王国に多大な技術援助をしている。タイが種子に前渡し金を払う見返りに、日本人は最新の航海技術を提供しているのだ。

 政治と文化の混沌のなかを漂う東南アジアのあり方と対比してみていもいい。
 最後には、メイド・イン・ジャパンのご主人様への奉仕が目的の人造物は暴走するところが象徴的だ。
 それが米国人(変な名前だが生粋のアメリカ人)としての著者の日本観を投影しているとしてもさほど的外れではないだろう。

 おそらくこの日本の伝統音楽の外国人コメント(遠方の異国へのイメージ投影)と共通した観念連合が小説にもきらめいているのだ。


 長年のSFファンとして感じるのだが、ブックカバーのイラストもかつての米国のSFのイラストを凌駕するようになったと思う。

ねじまき少女(上)

ねじまき少女(上)

ねじまき少女(下)

ねじまき少女(下)