賞味期限がない加藤秀俊の「漫文」

「漫文」というと失敬な表現になってしまうが、加藤秀俊の一般向けの文章はとてもとても手が込んでいることが分からないほどにスズロ(漫ろ)で洒脱な論文だ。
 そもそも加藤秀俊の学問はその著者紹介を読んでも判然としない。おそらく社会学者なのだろうが、そうした著書が見当たらないのは不思議なことだ。

 何と言っても視野の広さでは小松左京くらいしか同時代人で比肩できる知識人はいないであろう。『独学のすすめ』でいきなりジェーン・グドールのエピソードが語られるが、彼女が大した教育もツテもなく自分のチンパンジーお人形の思いを膨らまし続けて霊長類研究の第一人者になったというイントロは、現在の社会学者には書けないかもしれない。近ごろの社会学者の文章はやたらの小難しいのでついて行け無い。同業者を意識した狭い社会「学」をやっているような気配なのだ。

 いずれにせよ、専門用語などは金輪際登場しないところが加藤流なのだ。金輪際というのは言いすぎかな。
単なる書斎のヒトだと勘違いしないためには『紀行を旅する』をめくればいいだろう。
 ここでもいきなり菅江真澄北秋田の山奥紀行にしたがって、ひたすら山道を行く社会学者の姿がある。
 秋田県の北部はかなりの「秘境」といっていい。阿仁鉱山を訪ねあぐねて廃鉱となったのをついには見出す。
 1980年頃の「秘境」とは時代の進歩から取り残された場所であったが、現在では自然が勢いを取り戻した地域の意味になったというのがよく分かる。
 この「紀行文」からも行動する学者、体験を重んじるヒトであることが十二分に伺われるのだ。しかも、『紀行を旅する』でもわかるように、始まりを重視する歴史的なパースペクティブを重んじる社会学者なのだ。
 その分野での加藤秀俊の代表作『一年諸事雑記帳』などは雑学づきにはたまらない内容であるが、厳選されたアルケー(始まり)への絶え間ない熱い視線が感じられる。「始まりへの関心」というのは学問の衝動の一つとして、一番初めにあるべき好奇心であり、それをもって多くの人々の関心をも掻き立てる撹拌力ともなる。
 始まりを自由気ままに書いているように素人が感じるから「漫文」なのだが、その実筆力があるので一挙に最後までその情報連鎖に付き合わされてしまうのが達人の力量の証拠だ。

 かつての京都大学桑原武夫などの築いた人文研究グループの一員であると普通に考えられている。だが、そのグループが解体してから加藤秀俊学派というのはあまり聞いたことが無い。同調者、後継者を集めて徒党を組むタイプの学者ではなのであろう。一橋大学系は得てしてこうした独立独歩の人物を生み出すようだ。
 こうした人物が高齢とはいえ現存であるのは頼もしい限りではないか?


【参考資料】

紀行を旅する (中公文庫)

紀行を旅する (中公文庫)

一年諸事雑記帳(上)

一年諸事雑記帳(上)

独学のすすめ (ちくま文庫)

独学のすすめ (ちくま文庫)