洞窟と古代人の死後の世界観

 海岸沿いの海蝕洞窟に多く弥生人やその後継者たる大和民族の墓地が日本列島のあちらこちらに存在する。
 古代人がその墓地をどのように観念していたかについて窺い知れる文字資料は出雲風土記の猪目洞窟についての記述くらいだろうか。
「夢にこの磯の窟の辺に至れば、必ず死ぬ。故、俗人古より今に至るまで、黄泉の坂、黄泉の穴と名づくるなり」
 死後の世界への通路と考えられ、穢れを帯びて、死を呼び寄せる不吉な場所になっている。
 いずれにせよ、過去に墓地として使用した記憶がこのような伝承に変容したのであろう。
 ここで非常に示唆的なのがアイヌの地獄穴伝承である。北海道のアイヌ人の口承である。こちらは20世紀前半まで伝えれていた稀有な記録がある。
知里真志保の『あの世の入口』という論文が容易に利用できるのがいい。
 知里真志保金田一京助の弟子でアイヌ人であり大学教授となった人物である。知里幸恵の兄といったほうが分かりやすいかもしれない。

 例えばこうだ。

室蘭本線、虻田と豊浦の間の海岸に、アフンルパ※(小書き片仮名ル、1-6-92)と称する洞窟がある。それについて、次のような伝説が伝えられている。
 むかし、アブタの酋長が、妻に死なれて、悲嘆のあまり、何もする気がなくなり、寝てばかりいた。そこへある日、気の合う男がやって来て、磯魚とりに行かないかと誘った。どういうわけか、その時にかぎって行ってみようかなという気になったので、めいめい自分の舟に乗って、連れだって出かけ、チャシのある近所まで漕いで行くと、女がひとり磯菜をとっている。その履いているわらじが裏返しになっている。どうもその後姿が死んだ妻にそっくりである。そこで二人は舟を岩につないで岸に上り、こっそり忍びよった。すると女はひょいとふり向いた。やはり死んだ妻であった。彼女は二人を見ると、身をひるがえして逃げだし、洞窟の中へかけこんだので、酋長もその後を追って行くと、あの世へ出た。そこで妻の父に会い、いろいろさとされて、この世へかえってくる。そして待っていた男に、あの世の様子をいろいろ話し、ついでに、
「おまえも早く来たらどうだと、あの世からことずてがあったぜ」
とからかった。からかわれた男はぶりぶり恐りながら舟に乗ったが、舟の中にぱったり倒れて、それっきり動かなくなってしまった。逆にあの世へ行って来た男は長生したという。(幌別村出身、故知里イシュレ※(小書き片仮名ク、1-6-78)翁より筆者聞書)

あるいは余市市の伝説として、

後志国余市郡余市町内にもこの種の洞窟にまつわる伝説が伝えられている。
 昔、妻を亡くして淋しく暮らしている若者があった。ある日シリパ岬の沖に出て漁をしていると、シリパ岬の絶壁の下の磯で、夢中になってノリをとっている一人の女の姿を発見した。人の近よれない所に人がいるので、よく見ていると、亡くなった妻によく似ている。舟を磯に近よせてみると、夢にも忘れぬ妻の顔であった。狂喜して磯に飛び上ったところ、女はびっくりして後も見ずに逃げだしたので、若者は大声で女の名を呼びながら追って行くと、女は日ごろ人々が恐れて近よらぬ洞窟の中へ逃げこんだ。若者も続いて飛びこんでみると、ふしぎなことに洞窟の中は真暗でなく明るい。しかも立派な部落が見えていて、女はその方へどんどん逃げていく。若者も後を追って走って行くと、そこには死んでしまったはずの人々ばかりいる。そのうち一軒の家から一人の老人が出て来て、
「ここはまだ、おまえの来るところではない、早く帰れ!」
と云って、いくら頼んでもききいれてもらえず、とうとう追い返されてしまった。
 新しい妻の姿を見ながらむなしくヨイチに帰った若者は、失望のあまりそれきり仕事も手につかず、ブラブラしているうちに死んでしまった。それ以来この洞窟をこの世を終って地獄へ行く路の入口といって、終る道の口といい、近よる者がなくなったという。(『余市町郷土誌』所載――『北海道伝説集、アイヌ篇』107―8ページ)
「地獄へ行く路の入口といって、終る道の口といい」はすっきりしない云い方である。また「終る道の口」にオマンルパロとふりがなしているのは、オマン(奥へ行く)の意を誤解した訳語である。

 つい先ごろまで、アイヌの民は洞窟の奥底には異界があり、そこには故人たちが、先だった肉親や知人たちが住み暮らす世界が広がっていると信じていたのだ。

 であるならば、日本列島の古代人たちも同様な異界へ通じる境として海岸の洞窟を畏れ敬っていたとしてもそれほどはずれてはいまい。
 水辺に向かった洞窟に縄文人は住み暮らし、あとから来た弥生人はそれらを墓地がわりに使った。穢れた黄泉の国の入り口であると次第にそう思われるようになった。