大阪市の中心ともいうべき中之島公園に木村重成公のどでかい顕彰碑がある。
豊臣氏の滅亡のいくさであった大阪の陣。いくたりか輩出した豊臣方の忠臣の一人だ。明治時代となって江戸幕府の失墜となり、敵の敵は味方なりとわざわざ再評価されたわけではない。
もともと凛々しき若武者の可憐さと壮烈な最期に大阪人たちは江戸時代を通して、共感の念を絶やしていなかったというのが正しいだろう。
なにせ、ドカンとした巨大な記念碑だ。高さは4mはあろう。そのシンパシーのきさが推し量れる!
トリビアをつけくわえる。
新戸部稲造の『武士道』には木村重成の妻、青柳の夫への手紙というべき遺文が引用されている。
「一樹の蔭、一河の流、是れ他生の縁と承り候が、さでもをととせの頃ほひよりして、偕老の契をなして、只だ影の形にそふが如くまひまゐらせ候に、此頃一双り候へば、此世限'りの御催しの由、かげながら嬉しく存じまゐらせ候。唐土の項王とやらんは世に猛き武士なれど、慮氏の矯めに名残を惜み、木曾義仲は松殿の局に別を惜みきとやら、されば世に望み窮し妾が身にては、せめては御身御在生の中に最後を致し、死出の道とやらんにて待ち上奉り供。必ず必ず秀額公多年海山の鴻恩御忘却なきようたのみ上げまゐらせ候。」
この武将にして、この妻ありのメッセージだ。
ウィキペディアによれば、大阪落城後、青柳は近江の親戚のもとに落ち延び、一児を産んだのち自害したという。
それが真実だとすれば、おそらくはこの文は後世の付会であろうが、青柳の心情をこよなく物語る。新戸部はもののふの列女の一人の名を世界に伝えた。
八尾・若江の戦いで木村重成があっぱれ戦いぶりのすえ、戦死する。その首は香がたきこめられ、見聞した家康がその嗜みをほめた。もちろん、そのことは忘れらてはならない。
さて、この数百年前のもののふぶりが、後代の日本人に伝えた精神と影響は無視できないように思うのだ。
追い詰められたかつての名家への身命を賭した忠義。もはや私欲などなく名誉のみにかけて必死のいくさを戦う。
これは昭和期の特攻隊の姿勢に通じる。
大阪の陣と神風特攻隊、戦艦大和の沖縄特攻。いずれも貴重な歴史記憶である。
反戦派である自分も彼らの精神と行為を尊いものと感心することは人後に落ちない。
大阪の陣はこの本で追体験しよう。