都市伝説が示唆する青少年の深層心理

 都市伝説というコンセプトが定着してから30年は経過した。その間に集積された怪異群、怖い話や噂話も相当な数と種類になった。
 その集大成が『日本現代怪異事典』だろう。この労作をもとに、その社会心理の深層を探ってみよう。
 気がつくのは「動物」の化け物は影が薄いことだ。自然と切り離された都会人が伝えあう怖いものは「変な人」になっているようだ。化け猫もたぬきも狐憑きもいない。もっぱら、異形な「人」が怖さの源なのだ。
 その語り手たちは、おおむね若者たちだ。語り手としての中年のオジさんオバさんの気配はない。「学校」がその舞台となるのが多いのは、ひと頃の「学校の怪談」ブームと変化なしだ。もともと学校は若者たちの生きる場であり、「関門」であり、「不安」の巣窟なのだ。
 それはいつの時代でも共通なのであろう。

 とくに自分が注目するのは、出没の場所としての「(高速)道路」と「駅」だ。
上記の事典では「高速老婆」と「異界駅」の分類にあたる。
 高速老婆の実例には、ターボばあちゃんや120キロババア、走るバアサン、ホッピングばあちゃん、ピョンピョンババア、ジェットババアなどがある。
 夜、車でドライブしていると窓を高速度で並走するバアサンに叩かれた、のようなお話しである。
 なぜ、老婆がクルマと走らなければならないのであろうか?
自動車にまとわりつくのが老人たちであるというのは何故なのだろうか?

「境界」にうごめく奇怪な老人たち。それが示唆するのは若者たちの精神に投影された高齢化社会への不安だと言っておこう。そして、老婆たちに追走されるクルマもまた、若者たちの畏れの対象に変容しているのだ。
 もはやクルマは若者たちの自由の象徴ではなくなり、身体をベルトで羽交締めにされて決められた人生コースを進行することしかできない拘束運搬装置でしかない。
 身動きのとれぬ若者たちに「意識の辺縁にある老い」のイメージが突然に夢魔のごとく襲いかかるのだ。

 異界駅もまた、境界にある。
 月の宮駅、あまがたき駅、新麻布駅、ひるが駅、とこわ駅。こうしたありそうでない駅が前触れもなく訪れる。異界への入り口として「駅」があるのは不思議でもなんでもない。多くの自殺者は駅のプラットホームから他界に飛び立ってゆくのだから。死者の世界に通じるのが駅だと青年たちは識閾下で信じているかのようだ。
 多くの都会人には、どこに通じるとも知れない改札口は畏怖と憧れの出口なのだろう。

 このようなトランスポーテーションとの境界とは違うが、やはり異次元が顔をだす卑近な場がある。
トイレだ。
 この辺縁のトポスは昔から畏れをいだかせる「サンクチュアリ(聖域)」の一種であった。
 例の「事典」でもトイレの噂話の種類は圧倒的だ。50種以上の噂が記載されている。
 赤いちゃんちゃんこ、青い紙のような色にまつわるタブー、エリーゼ、きぬこさまなどの花子さん系など多種多様だ。

 かつての伝統社会では「厠神」とミツハノメの神が出這入するのが手洗いであってみれば、これらの無意識の恐怖もそれなりの根拠と伝統があるわけだ。折口信夫が析出してみせた『水の女』がその古代的拡がりを余すところなく述べている。その前提として、『古事記』の「イザナミ」の死に際し、「尿(ゆまり)」からなれる神が、「弥都波能売神(ミツハノメノカミ)」なのである。

 というわけで、結論的には「異界駅」と「高速老人」は現代の社会の不安の病理が集約されているようなのだ。また、高速道路には老人が出現し、トイレには童たちが到来するという対比も、さらなる検討が必要なのかもしれない。
 よって、トイレの怪に老人の出番がないのはミツハノメのせいかもしれないが、異界の駅がなぜか無人であるのが物寂しい。

日本現代怪異事典

日本現代怪異事典