イギリスの上流階級の婦人になりきるには

 それはヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』を読むにかぎる。もちろん、「ダウントン・アビー」でもいいかもしれない。同じ時代設定だから。だが、内面からのナリキリはウルフの小説の方に歩がある。

 画期的ともいっていいこの小説はロンドンの朝とともに始まる。
それはいかにもさっそうとした書き出しだ。

まあ愉快! 家から外へ飛びだしたときのあの気持、むかしブァトンでフランス窓をさっとあけ、大気のなかに飛び込んだとき。。そのときの蝶つがいのキーキーきしむ音が聞こえるようだ。早朝の空気はなんと新鮮で、なんと静かだったか

ダロウェイ夫人はどんな女性なのか?
お隣に住む男性の評価がすぐに続く。

「魅力的な女性だ」とスクロープ・パーブィスは思った。(ダロウェイ家の隣りに住む彼は、ウェストミンスター区に隣り合って住む少数の上流社会のメンバーが互いによくわかっていたように、彼女を知っていたのだ。)あの人には鳥の感じがある。

小鳥のイメージの初老の婦人なのだ。
そうそう、彼女の耳朶に響くビッグベンの鐘の音も体感できる。

 国会議事堂の大時計の鳴るとき、特殊な沈黙というか、厳粛、名状しがたい間、不安をたしかに感ずるのだ。そら、鳴った。まず音楽的な前じらせ、
...その音波の鉛色の輸が空中にとけた。

 ダロウェイ夫人は20世紀の初めの頃、第一次世界大戦後の大英帝国に生きている。
彼女の親戚、友人、知り合いが大戦で何人も戦死している状況であっても、戦勝国としての帝国の頂点の首都で彼女はこんなことを感じながら生きている。

「人間ってなんてばかなのかしら」と彼女はヴィクトリア街を横切りながら考えた。なぜなら、人はなぜこんなに人生を愛し、こんなにながめ、組み立て、自分の周りに造りあげ、次にまたこれをひっくり返しては、瞬間ごとに新しく創造するのか、それは神のみが知りたもうことなのだ。

だが、不安と不満が彼女の意識の縁をかすめても一瞬のことなのだ。
なぜなら「今は六月半ばであった。戦争は終った」からだ。
 そうして、彼女の注意はこの大都会に向けられる。

それからブラスバンド、取手回しの辻オルガンに、また頭上の飛行機の意気揚々たる爆音の異常に高い響きの中に、彼女の愛したもの――人生、ロンドン、六月のこの瞬間があった。

 そして、ほんのちょっと歩いただけで、幼馴染の、一時期は想いを寄せたこともあったヒューと挨拶しあう。

王家の紋章入りの文書かばんをさげて歩いて来たのは、ほかならぬヒュー・ウィットブレッドだったのだ。彼女の旧友のヒュー、あの賞讃すべきヒューだ。
「クラリッサさん、おはよう」とヒューはちょつと大げさに言った。

 しかし、今の主人のピーターのほうが自分にはぴったりであったと一人で合点するのがダロウェイ夫人なのだ。

このロンドンの通りに、ものごとの消長に、ここにそこに、なんとかわたしは生き続け、ピーターも生き続けるのだ。お互い同士の中に生きるのだ。わたしはたしかにブァトンの邸の本々の一部なのだし、また、実際醜く、つぎはぎのだだっ広い家だけれど、あのブァトンの家や、会ったこともない人々の一部なのだから。わたしが一番よく知っていた人々の間に、もやのようにひろがり、本々がもやを持ち上げるように、これらの人々の、いわば枝々の上に持ち上げられ、自分の世界、自分自身が逢か遠くまで拡がってゆくのだから。

 このように意識はとうとうと流れて、引用の切れ目を入れがたい。だが、ヴァージニア・ウルフの手腕は我らの視線を絶えず次の行へ次の行へと引き寄せる。

 ここまで読み進めば、ダロウェイ夫人の存在は間近になる。彼女の目でロンドンを見て、彼女の耳で街の喧騒を聞き取ることができる。なかんずく、ダロウェイ夫人を取り巻く人間模様が上流階級の婦人の眼で確かな姿を見て取れるようになる。それは請け合いだ。

 その後、ダロウェイ夫人は「私立病院にいる、イーヴリン・ウィットブレッドのところに」御見舞に行く。
 イーヴリンはヒューの病弱の奥さんだ。

 もうお分かりであろう。クラリッサ・ダロウェイになりきるには最初の10ページを読めば事足りるのだ。

そう。
 ロンドンの街なかに降り立ち、その雑踏と微妙に共鳴し合う心理を描いてウルフの右に出るものはいない。「意識の流れ」に自信の意識の流れを合流させることができる。ロンドンに住む上流階級の婦人になりきりたいのであれば、『ダロウェイ夫人』となりきる時間を選びなさい。凡百の映画やドラマより深くなりきるにはこの小説がピッタリだと思う。


【参考文献】
この小説には幾通りもの翻訳があるが、それは英文学者が偏愛している証拠であろう。しかも大半の翻訳のもは埋もれてしまうが、今でも複数が容易に入手可能なのはありがたい。

ダロウェイ夫人 (光文社古典新訳文庫)

ダロウェイ夫人 (光文社古典新訳文庫)

ちなみに自分の引用元はみすず書房版によっている。

ダロウェイ夫人 (ヴァージニア・ウルフ・コレクション)

ダロウェイ夫人 (ヴァージニア・ウルフ・コレクション)