新しいと荒ぶると 南島の海神の訪れ

 「新しい」、つまり、newという意味のことばがもとはと言えば「あらたし」であった。それは万葉集での用法から確かめられる。
 折口信夫万葉集辞典も「めづらしい。気がかはる。結構だ」と「あらたし」の意味を記している。
現代日本語の語順といつ入れ替わったかは知らぬ。
 けれども、ここから「荒ぶる」や「暴れる」と近い語感をもつことは知れる。折口信夫の辞典では
「あらあらしい行ひをする。あばれまはる、あれ狂ふ、善からぬ事にカを振うて、災をする」とある。
嵐(あらし)」はその一つである。
 気が入れ替わる、気が入り乱れるのが「新たし」なのであろう。「気」という中国の用語でしか語れぬのももどかしいが。
 万葉語の「あたらし」は「惜しい。大切だ。もったいない。」というほどの意味になる。

 で、なぜ、今どき、「あらたし」なのかと言えば、柳田国男の「海神宮考」の一節が気になったからだ。

沖縄神道史の特徴として、何よりも目につくのは新懸あらがかり、または新神とも荒神ともいう神の出現である。

 新しい今来の神は「荒ぶる」神として出現すると言ってるかのように感じたのであります。
新しいことは荒あらしいことであるのは、現代人である自分にもなんとなく腹に落ちる。

 それとこの節の面白さは新来の神々の奇妙な名前だ。

大ヂキュウもしくはウフヂキュウ、オトヂキョ、ワカヂキョ、オトヂヤ、ナルコ、ワカイキョ、ワライキョ、ウフヂキュウ、ヲウチキウ、ワダガナシなどがずらずらと並べてある。

これらの海神の容姿は怪異であった。奄美の例ではこうだ。

奄美大島の方でもワダガナシと呼ばるる海神が、地を曳ひくほどの偉大なフグリをぶら下げて出現することが、『南島雑話補遺』に誌しるされている。

 こんな突拍子もない神さまが海から上陸するのが沖縄諸島の慣わしであるらしい。いずれも脅しに来訪するだけではなく、稲の種子などをもってやってくる。

 恐怖を与えるだけでなくギフトをもたらすのだ。離島らしい信仰といえる。

荒ぶる神となると荒神信仰についても触れぬわけにもいかない。
手元の民俗辞典から引用して其の責を果たしておこう。

荒神の信仰は多岐にわたり,①屋内の火所にネ巳られ,火の神*・火伏せの神としての性格をもつ三宝荒神の信仰,②
屋外にネ巳られ,屋敷神*・同族神*・部落神といった内容をもつ地荒神の信仰,③牛馬の守護神としての荒神の信仰,の三つに大別できよう。

 とあり、地域によって様々な神を荒神信仰の対象としている。だが執筆者は「荒神信仰に共通するのは,荒々しく祟りやすいという性格である。」としており、南島の海神と同じ性格であることを示唆している。


【参考書】

海上の道 (岩波文庫 青 138-6)

海上の道 (岩波文庫 青 138-6)

万葉集

万葉集

日本民俗事典

日本民俗事典