異国体験の変容

 30年以上前までの外国文化への接点はほぼ「世界文学全集」であったと思う。「一流の」訳者による「一流」とみなされた小説の翻訳を通して、異国体験をするというのがポピュラーだったと思う。
 バブル以前の海外旅行などというのは非日常的でマレな出来事だった。今日のように気軽にエアラインを予約して、ホテルとレンタカーを自分で確保するような手軽さはなかった。
 異国体験のかわりに洋画があり、「世界文学」があったといえるのではないか。
洋画は重要な文化体験のチャネルではあったが、レンタルビデオのようなものがなかったので(つまり、映画館上映だけだったため)、視野の限られた覗き穴みたいなものだった。あるいは異文化のある部分を切り取ったサンプルのようなものだったともいえるかもしれない。

 世界文学、つまり、翻訳された活字が多数者にとっての異文化体験の仮想空間であったわけだ。そう個人的には思う、その証拠は絶対的な消費量、ニーズの多様さだ。
 今しばらく、当時の卑近ともいえる20世紀「世界文学」のリストをあげてみよう。

1)アメリカ文学
 ヘミングウェイの絶対的な人気、フォークナーの相対的な評判、今は誰も話題にしないノーマン・メイラーのナウさ、同じくヘンリー・ミラースタインベックも存在感があった。
2)フランス文学
 当代一番人気のジードなんて今では誰も読みはしない。サルトルはそうでもないが、ポール・ニザンやモンテルラン、モーリアックなど当時は常識、今日は死屍累々たるものだ。
3)ソ連ロシア文学
 ドストエフスキーの再来と呼ばれたレーオノフって誰だろう。カターエフ、フェージン、ショーロホフ、パステルナークの名も現代人の会話から消えている。逆にチェーホフドストエフスキートルストイは生き残っているが、彼らはロシア文学に属する。
4)その他
 モームカフカはひそかにファンがいるかもしれない。グレアム・グリーンのファンは希少価値があるだろう。ヘルマン・ヘッセは知っている人は多いだろうけどヘルマン・ブロッホは未知の作家ではなかろうか。
 イタリアの文学者はカルヴィーノが亡くなった後、ポピュラーな名前はないのだろう。なるほどパヴェーゼが翻訳されているけれど一部の読者層にしか浸透していないようである。ネオ・リアリスモ文学を今更日本に紹介してもねえ。


 しかしながら、現代世界文学が存在感がなくなると同時に、その国々の過去の名作や伝統への興味や魅力も消え失せていったようだ。
 エマーソンやヘンリー・ジェイムズウォルター・スコットやブロンテ姉妹、レッシング、シュレーゲル兄弟、ホフマンの小説のファンも身のまわりを見回してもほぼいない。あのバルザックモーパッサンフロベールランボーどころかディケンズゲーテ、ダンテすら読む人びとは圧倒的に少なくなったようだ。

 要するに異文化アクセスの歴史的な次元は消え失せてしまった。「現世界」文学というネーミングで生き残り活字世代をくくるとすれば、彼らの視野には村上春樹かその同時代人だけがいるということになる。現在世代に拘束されてしまったわけだ。
 それもこれも、インターネットと海外旅行のおかげである。「イマこの時」を生きるジェネレーションが、古い活字世代を凌駕した時代なのだろう。活字世代というのは長文読解世代でもある。長々しい演説や表現、込み入った議論を好むヤカラであった。古い「教養」という核を後生大事にしている連中でもある。次第に消滅しつつある活字世代からネットやリアル消費重視の「絵文字(エモティコン)世代」へと文化重心は推移している最中だ(移行はもう間もなく終わりになるだろう)

 ここで、一つでも自分にできるのは各国の文学史を推奨することぐらいであろうか。活字文化の厚みと資産を「エモティコン世代」にフル活用してもらうようにすることだろうか。