偉大なマックス・ウェーバーが『論語』を評して「インディアンの酋長のことばのようだ」といったとか。
我が国の儒者である、中江藤樹や伊藤仁斎、佐藤一斎などがその意味を聞き知ったら、「南蛮の夷」の嘲弄にさぞかし憤慨するであろう。
なおかつ、ことさら事態が紛糾させるのは「インディアンの酋長」の方が東西の学者先生にまさる部分があるという事実だ。
アメリカ・インディアンの知恵というのは近年評価が高いし、戦士としての勇気や技能もサムライに勝るとも劣らないものがあった。
付け加えるならばマックス・ウェーバーとて単なる講壇教師ではなく、決闘の傷あとが顔にい残るくらいの戦闘性があった。ちなみにヘーゲルも『論語』よりキケロの『義務について』のほうが格が上だとその『哲学史講義』で酷評している。
自分は文化的相対主義を語っているかのようだが、そうではない。なにしろ彼ら三者の生き様があまりに異なるがゆえに単純な比較を困難にしていると言いたいだけだ。
でも、真にそれだけであればこの文は無意味になろう。全然縁もゆかりもないものを比較しておいて、比較が困難だというだけなら馬鹿げているだろうから。それに『論語』は読みによっては相当深いものおがある。洋の東西の文芸思想に精通した加藤周一ですら、日本の精神基盤として『論語』の復活を唱えていたりする。
いまさらながらに自分の言いたいことは環境世界に精神も束縛されるといことである。それに加えて異文化の精神の了解というのは、相当に困難なことだ。
つまり、ユクスキュルのUmwelt(環世界)を異なる文化にも適用できないかどうかの相談をしたかったのである。すべての人はそれぞれに文化特有の知覚世界をもって生きており、その主体として行動しているという考えを当てはめることで、『論語』の拙いドイツ語訳に呆れたマックス・ウェーバーを想像してみたのであります。
ヘーゲルやウェーバーが読んだ孔子は浅い翻訳に過ぎなかったと断言できる。その点で我ら文化孤立国のガラパゴス島民は恵まれていたりする。論語もヘーゲルもかなり優れた(深い理解が底辺にある)訳本を容易に手に取れるからだ(文庫で)
日本精神における二千年以上の翻訳伝統=モノマネ文化の厚さは半端ではない。
【参考文献】
最後の儒者と自認していた吉川幸次郎の論語を読めば、その高い精神世界はより現代にも通用することが看取できる。
- 作者: 吉川幸次郎
- 出版社/メーカー: 朝日新聞社
- 発売日: 1996/10/01
- メディア: 単行本
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現代語訳ヘーゲルの東洋哲学の扱いで儒教の理解の軽さが伝わる。
- 作者: G.W.F.ヘーゲル,Georg Wilhelm Friedrich Hegel,長谷川宏
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2016/09/06
- メディア: 文庫
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