スタインベック 『赤い子馬』 を読み解く

 考えてみると牧場を経営する小さな家族、自然の中で少年が馬を育て、子馬の死によって自らも成長する、というような牧歌的なストーリーは、消え失せたジャンルだ。
 動物との関係も犬猫くらいで、馬のような実用を兼ねた家畜を育ているような人々は小説の主題になることはない。大自然のなかの家族的経営の牧場なんてのも流行らない。もうそんな過去とは縁遠い都会人ばかりが列島住民の大部分だ。

 スタインベック、そのヒトすら、忘却の淵にある。かつては『エデンの東』の原作者でノーベル賞受賞のアメリカの文豪だという、そんなセレブの一人だった。戦後に来日した時の歓迎ぶりも当時は相当なものだったという。

 馬を育てる、というのは犬猫鳥を飼うというような生易しいものではない。犬猫ペットは人間の愛玩物だから、ヒトの気まぐれに耐えられるような家禽に矮小化されている。
 馬は違う。まず、ヒトになつけることに多大な努力を要する。日ごろの手入れが気を抜けない。それに、乗馬できるようするのは下手をすると命がけだ。
 そうしたことを任された十代前半の少年がどう感じ、考え、経験をつんだ青年になっていくかを克明に記録した短編は、得がたいものだ。もはや、ポケモン世代には理解し難い、そんな昨日の世界がここにリアルに描かれている。
 アメリカ人の少年は子馬を可愛がるが、必要以上に近づこと、親愛感を持ちはしない。徹夜にちかい看病はするが人並みに扱っていないし、擬人的な描写はまったくないのに気付かされる。子馬は「ギャビラン」とだけ命名されるが、少年にとっては馬は馬なのだ。おそらく、日本人が馬と少年の関係を描くとしたら、人獣の境界は薄れてゆくのではないだろうか。

 そうそう、それと忘れてならない一節がある。少年の祖父にあたる老人は大西部の開拓時代の人間だ。その語りのなかで、なんの反省もなく、まつろわぬ民インディアンの女子供を撃ち殺した、と述懐する場面がある。スタインベックが子供の頃はインディアンは害獣の一種としてしか考えていなかったことがわかる。20世紀前半のふつうのアメリカ人の人間観はころほど純朴かつ野蛮だったのだ。
 白と黒、善と悪が白人からは明白であった時代なのだ。もう、こんなシンプルでナイーブなアメリカはどこにもない。だからこそ、こんな爽やかでノスタルジックなストーリーを紡ぎ出せたのだ。ベトナム戦争を知らないスタインベックがこれを出版したのは1940年であった。