南京虐殺事件とA級戦犯

 南京虐殺があったことは事実だろうが、30万人という無責任な数字が一人歩きしている。しかも、その責任が松井石根大将に帰せられているというのは悲喜劇も極まれりだ。
 松井石根は忘れ去らた人物ではない。「日本のヒトラー」と中国人はいまも歴史の教科書でそう教えこまれている。それを裏付けるのは東京裁判A級戦犯として有罪判決を受け、絞首刑とされた事実である。

 まず、松井石根がいかなる人物か?
 陸軍の親中派であり、孫文辛亥革命の支持者であった。
 その信念は巣鴨拘置所で絞首刑になる直前まで、変わっていなかった。
処刑の当日、昭和23年12月23日に最後に松井が語ったのは
「全く中国は困ったことにですが、今の中国の共産主義なら、ロシアのものとはよほど違い。中国の道徳などを加えて、政治形式が整えればやっていけのですが、それだけの人がいないですね」
と中国の行末を心配した発言であったという。

 1937年の南京陥落時の総指揮官は松井大将であった。予備役だった中国通でもあった松井を呼び戻して、蒋介石の国民政府の首都攻略の責任者としたわけだ。
 この攻城戦で松井石根はどういう心持ちで臨んだろうか?
「親子喧嘩で親が子どもをしつけに行く」という表現を松井はしている。
 なぜ、そうなったか?
 孫文亡き後の国民政府は統制がとれず、地方軍閥や匪賊が跋扈し、排日運動が盛んになる一方であった。中国共産党は暗躍し国民政府と大日本帝国とを引っ掻き回していた。蒋介石そのものも狷介な独裁者であり、その性格は民主主義とは程遠いものだった。
 遠因は満州国の建国や対華二十一箇条などにもあったが、日本居留民に対する暴行殺人は引きも切らず、日本国民全体の反感を煽っていたのだ。
 支那通は著しいジレンマに追い込まれていたわけである。

 早い話、軍部の大半と国民感情は中国制裁論で一致していた。日中戦争という泥沼の首謀者は帝国陸軍であるが、それを支援していたのは国民世論であったのだ。バカバカしいことだが、この時代の日本人に批判精神や平和的対応などを求めても無駄であろう。

 親中派たる陸軍上層部の権力者の一人として、事態の打開には南京政府の懲罰しかないと松井は判断したわけである。
 丸山真男はこのアタリの政治感覚の東洋的曖昧さを果敢に批判した。名編というべき「軍国支配者の精神形態」で松井石根の瞞着を攻撃している。

支配権力はこうした道徳化によって国民を欺瞞し世界を欺瞞しただけではなく、なによりも自己自身を欺瞞した

 1945年5月に出た論評としては清新さと精確な批評であったろう。
しかしながら、こうした日本的オブスキュアは軍人の専売特許ではなかったし、今でも変化してはいない。戦後の偉大な経済人、松下幸之助井深大も似たような口ぶりで語ることであろう。

 だいたい、「国民を欺瞞した」というのもどうにも正しくはない。南京陥落で提灯行列を率先して行ったのは国民なのだ。皇国のバカな臣民と丸山真男は補足しておくべきだったろう。
 そもそも、虐殺を止め軍紀粛正を求めた松井石根に対して、従わない将校や兵卒が虐殺を起こしたわけであるから、このお人好しの大将は無実というわけなのだ。東京裁判シドニー・ウェッブ検事も部下の不始末を止めようとしてた上司が死刑というのは非常識だと指摘している。
 松井石根は不作為の罪で絞首刑を宣告される。本人は南京虐殺を起こした当事者たちへの諌めとして死刑を受容したという。

 さて、もう一方の真実として興亜観音がある。
南京陥落の名誉の将軍は1938年に国内に凱旋して、そのまま栄達するわけではない。松井石根は夫婦ともども熱海に引退し、興亜観音を建立する。これは大東亜戦争、とくに日中戦争での両国の犠牲者の菩提を弔うための寺院である。
 終戦後、GHQに召喚されるまで、松井石根は毎日、興亜観音にて瞑想と追善回向の日々を送ったわけである。これが「日本のヒトラー」の真の姿なのだ。
 いかなる因果か、巣鴨での刑死したA級戦犯7人の遺骨はこの寺院で眠っている。横浜市保土ケ谷区久保山で荼毘に付した遺骨の一部が密かに持ちだされたのだ。

 余談になるが、東京裁判戦争犯罪を連合国が裁くことの無効さを主張したインド人パル判事は数回、興亜観音を訪れている。
「敵国の犠牲者をまつるために、余生を堂守にすごして、平和を祈ろうなどという気持ちはアメリカの将軍たちにはついにわからなかった」

 中国の歴史認識が誤っていて松井石根は無実であるという単純な図式ではない。中国が全面的に正しいという欺瞞が日中両国の国民に蔓延しているということなのだろう。


 興亜観音は現存する。過激派学生がその施設の一部を破壊した事件があった。軍国主義者の巣窟のように思えたのだろう。そういう単純な話しではないのであるけれど。


【参考資料】

松井石根と南京事件の真実 (文春新書)

松井石根と南京事件の真実 (文春新書)

共同研究 パル判決書(下) (講談社学術文庫)

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