空からの無差別攻撃

 空から一般市民への爆弾投下は1849年に起きた。日本は江戸時代、嘉永二年にあたる。徳川家慶の時代、葛飾北斎の没年でもある。黒船来航以前の数年前のころだ。
 気球から爆弾を投下したのはオーストリア軍であり、最初の被害地はヴェニスである。
飛行機は1903年に登場する。ご存知ライト兄弟の発明である。
 1911年にはイタリアが飛行機による空爆リビアで実施。当時、リビアはトルコ領だった。
 そして、本格的な空爆は1914年7月の第一次世界大戦によって火蓋を切ることになった。ドイツの飛行船ツェッペリンが8月に投入されている。けれども飛行船による空爆は非効率的であることが間もなく判明、爆撃機ゴタがやがて威力を発揮する。
 1917年6月のロンドン空襲は市民162人の死亡と432人の負傷者を出した。

 戦後、第一次世界大戦の惨禍を反省した欧米列強は国際連盟設立や戦備縮小など平和への舵を切る。この時期にオービル・ライト(ライト兄弟の弟)は「今次の大戦で恐ろしい経験をしたため、どの国も二度と戦争を起こさないだろう」と発言した。それは甘かった。
 しかし、晩年になってオービル・ライトは「私たちは浅はかにもこの世に長い平和をもたらしてくれるような発明をと願っていました。ですが、私たちは間違っていたのです」と後悔の気持ちを表明している。
 彼が亡くなったのは1948年なので、第二次大戦の一般市民を巻き込む悲惨な戦争を体験したわけである。


 人類の浅はかさと野蛮さを第一次と第二次世界大戦は白日のもとに晒した。二度もだ。その後、一般市民を巻き込む戦争手段に対して、反省したのだろうか?
 断じてNOだ。
 攻撃対象が文明の外部にあるという論理で中東諸国やアフリカなどでその無反省ぶりを先進国が見せつけている。北朝鮮とも同じ論理だろう。外部の敵国人は市民を含めて生命の価値を無視されるという近代の論理、内部は特別で外部は野蛮とみなす帝国主義的な論理が成立しているのだ。 グローバル経済の倫理と同等だ。新興国以下はどのような収奪(過酷な児童労働など)や不平等があろうと自己責任であり、経済的先進国は関知しない。
 繰り返しになるが理性的国家を自負した西洋諸国は非武装の一般市民への無差別攻撃を開始した。それは第二次大戦後も幾度と無く反復模倣されている。よって、今後もそれは続くであろう。尖閣諸島で限定戦争を始めて、日中両国の無差別爆撃にエスカレーションしない保証はどこにあるのか?
 戦争賛美or推進する人たちは市民への無差別爆撃を愛好する人たちなのだろうか?

  近代国家の理性などは薄っぺらく、すぐに吹っ飛んでしまうだろう。いつまでたっても倫理的に成長しないホモ・サピエンスというわけだ。野生動物以下の獣性をすぐむき出しにするのが近代文明というやつなのだ、おそらく。

 21世紀のミサイル攻撃や無人機による攻撃もその延長にある。つまり、次の世界大戦でも同じことを反復するのは目に見えている。

空の戦争史 (講談社現代新書)

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空爆の歴史―終わらない大量虐殺 (岩波新書)

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