初音ミク論 作り物に宿る一瞬の永遠美

 初音ミクは新しいものではない。われらの遠い父祖の人形(ひとがた)の末裔なのだ。
 人形は古来の芸能のなかで特別な場所にある。また、人の姿をかたどった人形は島国の深い情緒の源泉にある。
 文楽はその偉大な伝統の残滓だ。近松門左衛門という人形劇界のシェークスピアをその文化的遺産に持つのは忘れべからざることだ。
 人形浄瑠璃はその洗練された動作、しかし、作為的で人工的な所作で人間の本性を写しとる。その超地上的な美しさを感じ取ったのはドナルド・キーンだけではない。正岡子規中江兆民寺田寅彦など明治人もその深い様式美を評価した。

 人形はもろさとはかなさを備えたあえかな存在でありながら永遠にそのままの形姿を保つ。初音ミクというデジタルな人形もその例外ではない。
 2007年8月31日に生まれた初音ミクは数年たっても16歳の姿のママだ。
未熟さと未完成がそのまま、日本人の情感に訴える。永遠の少女=巫女でもある。

 小さく哀れなるものの可愛さ、可憐さが、雛人形の原型にあったと折口信夫が伝える。

上総の東金では、今でも、此日を野遊びの日と言うて、少女達は岡に登り、川に向つて「来年もまたござらつしやれ、おなごり惜しや/\」と繰り返す。


 音声は人工性を残す耳障りな発音であり、作り物まるだしなポリゴン性が人形の性質を色濃くする。しかし、その稚拙さがそのままノイズとあいまって、文楽的な省略の様式美に流れ込むのが感じ取れる。

 初音ミクは物質的な材料からできた人形ではない。「彼女」はいったんダウンロードされ、パフォーマンスののちにその記憶を喪いながら、天上界に去る。
 テクノロジー的に言い換えるならば、初音ミクというアプリはメモリ空間に展開されて液晶画面という舞台で、歌い舞い、そして演技をしたことを忘却して、再びクラウドのサーバーの記憶装置に舞い戻るのだ。



 後半生を文楽人形の研究に捧げた竹内勝太郎のいうことを聞こう。

人形は知識を得た人間に貶しめられ、権威と勢力を奪われ、沈黙のなかにとじこめられて、哀れにも小さく退化した巨人チタン族の後裔である。


 例えば、和辻哲郎の本書の冒頭に「文楽座の人形芝居」が置かれている。彼が最後の大作で残した人形浄瑠璃研究を初音ミク論の初期作品とみなすこともできよう。

和辻哲郎随筆集 (岩波文庫)

和辻哲郎随筆集 (岩波文庫)