ポール・クローデルの日本への哀悼

 20世紀前半に来日した西洋知識人のなかでもポール・クローデルという高い感性の知日派を持ち得たのは幸運であった。
 大正時代にフランスの外交官として日本に赴任したクローデルは彫刻家の姉の影響もあり、若い頃から日本への憧憬を抱いていた。
 彼を待ち受けていたのは関東大震災であり、労働と貧苦にあえぐ資本主義後発国の民衆の姿だったが、それを補って余りあるのは日本文化の美的感覚であり、自然の美しさだった。
 伝統演劇の鑑賞に多くの時間を割き、能と文楽それに歌舞伎についてはそのエッセイと日記に彼の感じたことを克明に書き記している。
 やがてパリのパンテオンに葬られることになる国民的な詩人クローデルの感性は、現代の日本人に何を告げてくれているだろう。

 能を偉大なギリシア悲劇と比較するというのは西洋の中枢からのエリートの発言としては、かなりの飛躍であろう。けれど彼の書いたこの一節はその比較が根拠なき感動ではないことを示している。

 その芦刈人は長い別離の後、行方知れずであった妻と再会するのだが、そのとき二人の感動を表すのは、ただ、二つの扇の震えのみによる。一瞬の間、二人の息遣いを一つに重ね合わすある扇の震えのみなのである。

 唐木順三が『中世の文学』で見事に分析してみせた、限界まで極小化された身体所作の一例をクローデルは鋭敏に感知し、それを『能』という小編の末尾にピタリと配置することで、読者を深い感慨のなかに置き去りにする。

 芸術的な体験を積み重ね帰国した後、クローデルは第二次大戦における悲惨かつ、宿命的な敗戦の日本を思いやる。
 それが1945年8月に発表された『日本への惜別』である。詩人は広島長崎の被災のニュースとともに豊かな自然と貧しい資源の敗戦国日本を思いやるのだ。

 ...この国の現在の没落の責任は軍部にある。しかし、だからといって、冬の夕闇からくっきりと浮かび上がる富士山の姿が人間の目に差し出された最も崇高な光景の一つであることに変わりはない。日本の美術や詩歌が、その高雅な美しさや本質を示す技において人間の思惟に貴重な貢献を為してきたことに変わりはないのだ。

 そして、クローデルは末尾に旧約聖書から引く。

日本よさようなら だがそれでも聖書のこのコトバが執拗に私の心に浮かんでくる、主は諸国の民を不滅のものとされた

 彼は同じ時期、アカデミーの友人に滅びてほしくない民族があるとすればそれは日本だと発言している。敵国であるはずの日本文化と人びとへの惜別の念がそう発言させたのは、上記の文章にも表れているのだなあ。



 引用はこの訳本から持ち出している。ドイツの文化人でこういう共感を示したのはアインシュタインブルーノ・タウトくらいかな。