表題から深い議論を期待してはいけない。
表面的な比較をしてみるだけだ。
『維摩経』は在家仏教の教えをとく経典、大乗仏教の名作として知られる。維摩は仮想の存在だ。他方、『論理哲学論考』はウィトゲンシュタインという分析的知性の強靭な思考の産物であり、現在の分析哲学、言語哲学の古典だ。
維摩には「維摩の一黙」がある。不二法門に入るにはどうすればいいかという文殊の質問に沈黙をもって答えた。仏弟子知恵一番の文殊はこれを称えた。
「善哉、善哉、乃至文字語言有ることなし。是れ真に不二法門に入るなり」
真の状態に至る道は語りえないことを実践してみせたのだ。「維摩の一黙、響き雷の如し」と後世賛嘆される。
さて、ウィトゲンシュタインも『論考』の末尾に「7.語りえぬものについては沈黙しなければならない」とおいた。
この「沈黙」の意味は永井均の指摘で代弁するとこうなる。
『論考』の諸命題は、読者が「世界を正しく見る」ことを助けるための一時的な方便でしかなく、いわば教育的価値しかもたない。
また、こうも言う。
世界の外にある「倫理的なことがら」に向けて、内側から限界を設定するために書かれたのであった
ウィトゲンシュタインの意図は内側からの境界を『論考』の諸命題で包絡線として描いた。語りたい「外側」の倫理的命題は「語りえない」のだ。
この事態は論理神学であると鬼界 彰夫は言う。つまり、論理学の外装した神秘主義なのだと。言語と論理の境界外にあるものを論証するという野心的な思索なのだ。
論理神学とは論理と言語の限界を論証的に示すことにより、超越的存在を間接的に意味する営みである
そうした解釈が許されるなら、維摩の一黙は、ウィトゲンシュタインの「沈黙」と案外、近い場所にあるのかもしれない。
では維摩の一黙と同じことを目指しているだろうかというと、どうもそうではない。不二法門ということを実践してみせたのが、この沈黙であってみれば当然だろう。不二法門とは生と死、善と不善など対立する二つの概念が同じであることをいう。二項対立がない、一切に違いがないことだ。
しかしまた、維摩の不二法門は論理を超えた究極のものを指し示そうとしている点で、論理のウィトゲンシュタインの方向性とは一致していると言えなくもない。
どうであろうか?
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多分、一番読んでほしいウィトゲンシュタイン解釈本だ。
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まったくサラリとした表面上の類似を、維摩とウィトゲンシュタインについてしてみたまでのこと。