最近になり縄文図象学なる研究があることを知った。考古学からはみ出し縄文土器の図象から古代信仰を読み解く試みだ。
とりわけネリー・ナウマンなるドイツ人の研究が刺激になって、「山の神」なるシンボルを土器から拾い出している。日本民俗学では山の神は女性ということになる。
非常に興味深いことに
イザナミノミコトは火の神を生むことで現身(うつしみ)を喪い、黄泉の世界に去ることで黄泉を支配する女王になる。彼女はヒトの命を要求する恐ろしい女神となるのだ。
古事記のイザナミノミコトの最後の出産シーンを青空文庫の現代語訳から引いておく。
次にホノヤギハヤヲの神、またの名をホノカガ彦の神、またの名をホノカグツチの神といいます。この子をお生みになつたためにイザナミの命は御陰(みほと)が燒かれて御病氣になりました。その嘔吐でできた神の名はカナヤマ彦の神とカナヤマ姫の神、屎くそでできた神の名はハニヤス彦の神とハニヤス姫の神、小便でできた神の名はミツハノメの神とワクムスビの神です。この神の子はトヨウケ姫の神といいます。かような次第でイザナミの命は火の神をお生みになつたために遂ついにお隱かくれになりました。
ホノカグツチの神を生む神話的な情景は中期の縄文土器に出現している。それは
「イザナミの命は御陰が燒かれて御病氣になりました」そのものだ。
土器についた顔は神をモチーフとしたものであり、出産の場面を描いたものだ。実は縄文中期に南九州鬼界カルデラにあたる火山が大爆発を起こしている。九州の縄文文化の系統は絶たれ、西日本でも縄文系の遺跡が急減している。
この土器の相貌はイザナミノミコトに連なる原始地母神であり、火山の怒りに対する畏怖を表したものと解釈できるのではないか?
これに関連して「縄文ランプ」と言われる祭儀のための土器を参照するとますます、迦具土神とイザナミノミコトの関係が投影されたものという実感が強まる。火炎にみほとが焼かれる神の姿がイザナミノミコトに二重写しされる。
縄文時代中期の縄文ランプの奇怪さを田中基は「縄文のメドゥーサ」と呼んだ。彼は山梨から出土した状況から崇拝の対象であるとしている。
長野県から山梨県にかけての中部地帯では縄文中期に自然環境に大きな変動があったと解釈する安田喜憲のような環境考古学者もいる。彼は住環境や食物事情も劣化したのだと推測している。
実は、イザナミノミコトの「火山」的特性を指摘したのは益田勝実だ。名著といってもいい『火山列島の思想』所収で1965年の論文だ。しかし、縄文土器にその源泉があるとまでは彼も生前には知り得なかった。また、ネリー・ナウマンらの業績を正当に評価もしていないようだ。
自分の見たてでは、この情景は火山、畏るべき神としての「山の神」の原型が出現していると思うのだ。御陰(みほと)からホノカグツチの神が出て、国生み慈母は黄泉に移行し、人びとを取り殺す暴虐の神に変様する。
黄泉の国ではイザナミノミコトは自然界の凶暴さ、醜怪さと昏さの権化となっている。
蛆が湧わいてごろごろと鳴つており、頭には大きな雷が居、胸には火の雷が居、腹には黒い雷が居、陰にはさかんな雷が居、左の手には若い雷が居、右の手には土の雷が居、左の足には鳴る雷が居、右の足にはねている雷が居て、合わせて十種の雷が出現していました。そこでイザナギの命が驚いて逃げてお還りになる時にイザナミの命は「わたしに辱はじをお見せになつた」と言う。
十種の雷が群居する怒りの神になっているのだ。これはこれで、一天を覆い尽くしてあたりが暗くなりほどの大噴火の雲煙にしばしば雷による放電現象があることを連想させる。大噴火に対する縄文人の畏怖が古代の伝承にまで残存していると見なせないだろうか?
土器の描かれた女神像はイザナミノミコトそのものではない。その一つの源流に位置していると見なせるといいたいのだ。
しかし、縄文時代中期にあった自然界の暗転の経験が慈母の神と憤怒の神の両面性として国生みの女神に伝承されていても不思議ではないだろう。
益田勝実の仕事は自分にも貴重な財産である。火山列島特有の神話的な幻視を記紀に見て取った碩学だ。
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上記の土器の写真はこの書物から一部を加工・編集した
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