司馬遼太郎によれば戦国末期に、藤原惺窩という儒学者がいた。彼は日本の野蛮さを軽蔑し、隣国の朝鮮に渡ることを生涯の願いとしたという。当時の、朝鮮は儒教による国家運営の模範だったのだ。
江戸時代になり林羅山が幕府お抱えの儒学者となるが、惺窩の弟子である。官学としての朱子学の権威を樹立するのが林一門の役目となるわけであろう。
しかし、惺窩の切望した文化転換と逆転は江戸時代と李朝朝鮮時代に起きる。
ところで、金声翰氏の日朝比較論によるとこうだ。
妥協の伝統がくずれたのは李朝時代だった。この時期は妥協を知らない朱子学唯一思想の時だった。朱子学におさえつけられて、微弱であった道教は影をひそめ、仏教は山間に追いやられた。僧侶は賤民に組み込まれて強制労働にかり出され、首都ソウルヘの出入りさえ禁じられた。同じ儒教のなかでも陽明学などほかの学派は異端とされ、論駁の余地もなかった。朱子学の中でも伝統派の解釈と違うと斯文乱賊といわれ、生命を保つことさえできなかった。.....
産業、経済は萎縮し国は貧困におおわれた。
仏教など全ての多様性の伝統は李朝期に押しつぶされた。民衆もその余波をうけて、職人は侮蔑の対象になった。
他方、同時代の日本は学習熱に被われた。官学の朱子学や儒学だけではない、国学も和算も神道のみならず仏教の研究と折衷も進んだ。出島から発生した蘭学も忘れてはならない。
時折、来日した朝鮮通信使もその文化伝播の担い手だったのも付け加えよう。
特筆すべきは、藩校と寺子屋の津々浦々までの活動だ。この学習熱はたぶん、庶民性という点で李朝や清などを凌駕し、先進諸国であった西洋列強以上のものがあった。
ある意味、藤原惺窩の願望が異なるかたちで実現したのだ。
- 作者: 金声翰,金容権
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