先進国の情報消費社会に蔓延るゲームは60年代の遺産or精神的残骸

ネトゲでもスマホゲームでもファミコンでもwiiでもXBOXであろうと、ゲーム世界はこの世界と違う異界を舞台にする。
 パズルでもシミュレーションでもシューティングでもRPGであろうといずれも内的世界、イデアルな世界が背景になる。
 典型がダンジョンゲームであろう。チームで困難に立ち向かいながらゴールを目指す。そのプロセスは『指輪物語』のように遍歴のストーリーをなぞる。
 その遍歴は神話的か民話的か、あるいはまた、ハリウッド映画を模しているにせよ、物語の主人公になるのはゲーマーである。
 しかし、なぜ、異世界的なのであろうか?
その鍵はボードゲームの起源をたどることにより、60年代に行き着くのだ。

 あの華々しかったカウンターカルチャーはかくして、デジタルネットでの「精神世界」にその遺産を宿しているいると考えてよかろう。
 しかし、ゲームの世界はマヤカシの精神世界であるような気配が漂うのは、なんでだろう?
 いかにリアルに見えようとゲーム世界はカント哲学的にいえば「第二現象界」であろう。仏教的に言い換えると「マーヤの第二のヴェール」だろうか。
 それゆえ、妄念のうえにうわ書きされた虚構の世界と喩えてみよう。この二重化した虚構ワールドではゲーマのシンボルである登場キャラが、短期的に生誕し成長し消滅する。
 ゲームの目標を達成したかどうかを問わなければ、キャラの生成死滅の繰り返しでしかない。ゲーマは同じゲームの多くのセッション、もしくは幾多の異なるゲーム世界を乗り換える。
 仮想の「輪廻転生」がそこにある。ゲーマはキャラ=化身の生成死滅を超越した輪廻の主体であるのだ。化身とはアヴァタともいう。

 二重化した虚構ワールドにおけるサンサーラから一歩離れれば、変わらぬ自分がいる。変われぬ自分がある。
 ただ、アーラヤ識としての自分が残る。
そこに「本覚」への直通の道がありはしないか?
 生き替り死に変わる化身に対する盲執は薄く、ましてやゲーム世界のアイテムへの執着は、現世の事物への執着よりはたやすく断ち切れるかもしれない。
 ゲーム世界の虚妄性からの悟ったもの、そのようなネットゲーム菩薩は生まれないだろうか。
 ゲーム世界を虚仮とする現世離脱の教え=解脱的宗教は、あんがい21世紀に復活するかもしれない。


接続された心―インターネット時代のアイデンティティ

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ダンジョンズ&ドリーマーズ

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