井筒俊彦の言霊哲学

 20世紀に欧米の哲学界を席巻した論理実証主義は、現在のところ日常言語分析もしくは言語哲学というものに収斂した模様だ。
 世界を科学的に語れる実証的な哲学というものを模索しているうちに、言語とは何かに問題と対象が絞り込まれたようなのだ(自分は素人なので推測で書くしか無い)
カッコつけて言えば、自然科学の哲学的根拠は言語の問題に逢着したのだ。

 それはともかく、晩年の井筒俊彦というイスラム研究家にして神秘主義者のたどりついた地点とおなじ場所に言語哲学があるのが興味深い。
 実のところ、井筒はエラノス会議に連続十五回参加するという記録があり、アスコーナ対抗文化の流れに身を浸していた。 会議にはアンリ・コルバンとか、ユングとか、宗教系の思想家や研究家たちの梁山泊の様相で呈していたと思う(これも推測だけど)
 西洋哲学ではとくに大陸系のデリダとの交流はあった。デリダからは「巨匠」と賛辞を受けている。井筒も珍しく現代思想と接点をもった。
 なにしろ30もの言語に通暁した生ける言語アーラヤ識井筒俊彦であった。若い頃は英語、ドイツ語、フランス誤は面白みに欠けると言い放ち、ロシア語はちょっと面白いがアラビア語だけが異質であり、取り組みがいがあったという。晩年にも自由に扱えるのは15くらいだと語っている。
 現代思想といえば90年台を駆け抜けた丸山圭三郎との触れ合いを忘れるべきではない。このソシュール研究者の業績により「言語による世界分節」を研ぎ澄まされた概念に仕上げた井筒は、東洋的神秘主義をその概念で切り込んでいくのだ(あいにくと井筒は先行者の業績については著書に表立って言及することはないのだが)。また、井筒のモチベーションの一つに自身の神秘体験があったという。
 
 ソシュール言語学の異質な道具により、『意味と本質』が書かれたということもできる。そこで扱われるのは、イスラム神秘主義、禅、朱子学マラルメの詩、唯識大乗起信論などだ。アジア圏の幅広い宗教思考が語られる一方、抜けているは「言霊信仰」である。
 ところが彼が司馬遼太郎との対談(人生最後のもとなる)で語っているのは、示唆的だ。

私は、元来は新古今が好きで、古今、新古今の思想的構造の意味論的研究を専門にやろうと思ったことさえあるくらいですから、日本語はすごく好きなんです。

 彼は司馬との対談の翌年に就寝中に脳溢血で事切れる。あっけないが安心立命の最期であったと言えまいか。この縁もあってか、司馬遼太郎が弔辞を読み上げている(より適任者がいたとも思うけどね)
 想像するに、その死の意識で井筒俊彦は霊妙な神秘体験という人生最大の果実を味わいながら彼岸に至ったのだろう。
 大乗起信論で始まった神秘思想解明のシリーズには言霊の章もあっただろうが、それは書かれずじまいだった。井筒の処女作でかつ代表作でもある『神秘哲学』はギリシア古典哲学に神秘主義の水脈をたどった力作だ。イオニア哲学からパルメニデスヘラクレイトスを経由してプラトンアリストテレスの高み、そして新プラトン主義に至る、神と理性の対峙と融合の流れを調べあげたのは大したものだ。
 彼はいかなる学派とも孤立してこの書籍を生み出した。それはそれで驚異だ。
アラブ中東圏だけでなくロシアもユダヤも中国も彼の視野に入っていた。そして、加えるに少年期の父親の禅的薫陶というのが井筒の精神的DNAとなっているのだ。ずいぶんと広範囲な精神的伝統を一身に担ったものだ!

それにしても、思想界や哲学界の評価はあまりなく、そのインパクトは宗教系の人びとに限られるようだ。それはほとんど唯一といっていいくらいの『井筒俊彦 言語の根源と哲学の発生』(河出書房新社)の有り様に象徴される。その執筆陣には思想家が少なく、言語哲学者もギリシア哲学者などの研究家が少ない。素人目には雑駁な論集という感じなのだ。それでも貴重な情報源であることには変わりはないけれど。

 井筒俊彦の人間関係模様をまとめておこう。直系のイスラム学者は除く。
池田彌三郎。この慶応大学の民俗学者は竹馬の友だったようだ。国文学者の佐竹昭広。なぜか、『民話の思想』に井筒の後書きが、それもソシュール論とともに含まれている。
 ソシュールの影響は表立ってはいないが、大きな刻印を井筒の著書に残している。ソシュールという文脈でいえば、丸山圭三郎は後期の思想で井筒俊彦への感謝を記したが、彼の方が早世したので、言語哲学を深めることができなかった。
 故河合隼雄ユング心理学者も同世代ではあるがエラノス会議の後継者になったり、「井筒先生」と尊称で引用される関係だった。『ユング心理と仏教』はその典型だ。そのなかで、華厳思想や大乗起信論を井筒のことばで語っている。
 1991年にイスラム教関係者により暗殺された五十嵐 一筑波大教授もイスラム教研究の愛弟子とされる人物だったようだ。中沢新一は現存であり、井筒から初期の頃に激賞されているが学問的もしくは思想的交流という種類の関係性ではなさそうだ。
 現存の学者ではシュタイナー研究家の高橋巌。思想的な後継者といってもいいだろう。最近のスピリチュアリズムの復興で氏の活動は見直されている。
 


 ということで日本的精神による貴重な世界文化遺産として井筒のポピュラーな著書をいくつか展示しておくとしよう。

意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)

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東洋哲学覚書 意識の形而上学―『大乗起信論』の哲学 (中公文庫)

東洋哲学覚書 意識の形而上学―『大乗起信論』の哲学 (中公文庫)


 この本は、最近読みだした。まだ壮年期の著者の意気込みが感じられる。西洋古典哲学からスタートし、イスラム思想にいたるのだが、なんとしてもイスラム神学の根幹にはギリシアがあったのだ。

神秘哲学―ギリシアの部

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 中高年の精神的アイドル、司馬遼太郎との対談を含む。大川周明との知られざる交流も機長な証言だ。

十六の話 (中公文庫)

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 雑駁にして貴重な情報源である。井筒氏の人生はここに語られている。

 影響を明記している関連書籍

民話の思想 (中公文庫)

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生の円環運動

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ユング心理学と仏教 (岩波現代文庫 〈心理療法〉コレクション V)

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神秘主義のエクリチュール

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