カソリック神父から出た異端の思想家である、人類学者テイヤール・ド・シャルダンは禁書指定のまま生涯を終えた。その斬新な宇宙観はイエズス会どころかローマ教皇庁の認めるようなものではなかったためだ。
彼は中国に、20世紀前半の戦塵煙る中国大陸に布教のためという名目で、島流しにされる。その地で北京原人の発掘という僥倖に巡りあうのではあるが、なんとしてもヨーロッパに戻りたかったようだ。
人類進化の極限オメガポイントにイエスとの邂逅を据えた進化論的神学を目指したのが、フランスの神父であるなら、それに対比されるような仏教的宇宙論者が、東洋にいるであろうか?
つまり、倶舎論にあるような幻想的宇宙論ではなく、科学的な事象を踏まえた宇宙観と仏教思想を本気で融合させようとした科学者兼宗教家はいるのだろうか?
自然科学者や工学者が「物理学と法華経」のような科学と仏教的世界観の無矛盾性を説いたような書物の所在が、上記の問いかけの回答になるとは思えない。
なんといっても自然科学の事象を「あるがまま」の仏教的宇宙に単純加算するだけでは、なんとしても力不足というか、本気さが足りないのように感じるのだ。
大体が東洋思想は自然科学系の業績に「No」を突きつけるたことは、ほとんど無いのではないか。東洋的宗教と自然科学が全然異なるものであるから、お互いを否定しようもないというのが真相ではないか?
「宗教と科学の闘争」がないような土壌では、テイヤール・ド・シャルダン的スペキュレーションは産まれようもないのだろう。
それでは、仏教を否定するような要素は自然科学にはないのであろうか?
輪廻転生などは大概の自然科学者は証拠なしとするだろう。しかし、仏教徒は否定されたとも思わない。どのレベルで輪廻転生を語るかにもよるけれど宗教的アレゴリーであるという解釈でも、さほど問題にならないだろう。
何しろ、死ねば「ホトケ」にすべての亡者がなる日本なのだ。輪廻転生なんてあったもんじゃない。それほど曖昧な教義であれば、自然科学の追求などは痛くも痒くもない。
ということで、東洋的テイヤール・ド・シャルダンは、もし宇宙観を開陳するならば、「否定」から開始しなければ思索を開始できないのはないかという地点まできた。
科学者としてのテイヤール・ド・シャルダンの評伝はこれが唯一だろう。
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