日本人の思考力のわびしき風景

 21世紀日本人の思考力の状況を個人的感想を直裁かつ簡略に要約してみよう。

 自然界の法則は現代の日本の言説にも当て嵌まる。
すなわち、重いモノは沈殿し軽いものだけが浮上する。 
 さらに加えて、長いものややこしいことは疎まれ、短いものが流行ることを追加すれば、分厚い思想書などよりWebのライフハックが好まれることの現象論的な説明にはなろう。
 物事をじっくり考えようとする人たちは次第に片隅に引きこもり、社会的な交雑がなくなる。
 しかし、個別にじっくり考えてもそれはタコツボ化するしかなく、現実世界への到達力や訴求力に欠ける。異質な思考との相互作用からしかアクチュアルな思考は生まれない。
 つまりは、日本人の中から深みと重みのある思考は生まれにくくなるわけだ。

 そうなると、アクチュアルでパースペクティブのある思考はおおむね舶来品になる。
 実際に、欧米圏はいまだに思想を牽引する言説を発信している。例えば、『テクニウム』などはその典型だろう。日本はその消費国でしかない。
 その代り、ケインズの研究家、マルクス主義者やマックス・ウェーバーの信奉者やフッサーリアンには事欠かない。過去の栄光に忠純なる伝統主義者は閉ざされた島国で生きながらえる傾向にある。
 閉じた学会になかでの論文がその生きている証となる。いかんせんその現代的価値が問われることがないのが弱みとなる。

 国民の思考のメディア=媒介として現在の状況が物語るのは、分厚い書物が敬遠され、紙メディアが衰退している。デジタルメディアは、それのみでは軽すぎるのだ。
 これは、深い思考力の衰弱の情況証拠であろう。


 『テクニウム』の著者は決してエリート層でも高学歴でもない。にもかかわらず幅広い知識と洞察力に富んだ考察が込められた思考ができる。そうした書物が生まれる土壌がアメリカにはあり、日本にはない。

テクニウム――テクノロジーはどこへ向かうのか?

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