人には信じられぬことを信じられる時期がある。それは「青春期」だ。世に不可能事なしと感じられる瞬間が誰にでもある。それを一過性の不死体験と逆説的に呼んでもいい。
実のところ、いくつかのコンテンツはその瞬間を再生させる力能がある。それは『涼宮ハルヒシリーズ』だったり、『エヴァンゲリオン』や『氷菓』だったりするのが、語るに落ちたと言われれば、そうやもしれぬ。
多くの固定ファンがいる涼宮ハルヒシリーズについて、どうしてそれが成り立つか、つまり、ライトノベル特有の軽薄短小さを乗り越えて、その価値に普遍性が生まれたのはなぜか?
それを題材にして、語ったのは下記の文章であった。
学生時代、とりわけ十代後半は、人生のアルカディアといえる。その高揚した気分というのは、残りの人生のすべての高揚感を寄せ集めてもかなうまい。
自己が世界の中心にいるというビジョンは、世間を十分知らず、しかし、世界の広大さを拓く精神の発展期に訪れるのだ。
宮沢賢治の小岩井牧場の連作にみられるようなビジョンが好例であろう。
純粋無垢かつ絶学無憂の境地にある生の絶頂期には、不条理であり非合理であっても、それを信じることが可能なのだ。
ルイス・キャロルのいう「朝食前に不可能事を6つも信じる」のは、涼宮ハルヒの至上のゴールなのだ。
西田幾多郎を援用しよう。
「永遠の死に直面するとき、われわれ人間の個体は、はじめて、〈純粋な受動性〉が得られるようになるからである。まさに、この純粋な受動性が時間性を超えて、限りないエネルギーと永遠の生命を受け取るようになるのである。またそのとき、ひとは、真に自己たりうるし、真の人格たりうるのである」『場所的論理と宗教的世界観』
瞬間的な不死、あるいは融通無碍となったビジョンを持つことは個体性の限界を知りつつ、その限界と終焉を乗り越えることだ。〈純粋な受動性〉ではなく、〈純粋な能動性〉を獲得した充足感を獲得するのだ。
それは、生命としての力能のピーク期に起きる。それ以降の時間は個体にとっては長い凋落期になるのかもしれない。しかし、人間はその瞬間を再生できる。不死性と可死性を現存在は内包してゆけるはずだ。