地形と景観からの江戸時代の変化のメモ

 戦国大名は各地でいまだに尊敬されている。仙台では政宗公、新潟では謙信公だし、山梨では信玄公、薩摩では島津様と尊称される。
 領国経営に彼ら戦国武将たちは力を入れたからであって、いくさばかりしていたら誰も「公」などと呼びはしなくなっただろう。民衆とは素直なものだ。
 領国経営とは秩序の確立と新田開墾のような産業育成だといっていい。領民の繁栄が戦力そのものに直結することを室町時代後期の武将たちは心得ていた。しかも、治水技術がこの期間にかなり進んだようだ。それは城という形で後世にも伝えられているが、その土木技術は領国の経済的利益の拡充にも注ぎ込まれたことは、忘れてなるまい。
 我が国の技術史としてはどうしてシビルエンジニアリングが進化したかを説明できているのだろうか?
 いずれにせよ、大阪城や姫路城などの巨大な建築物を生み出す技術は、「葦原の瑞穂の国」と呼ばれた沼、潟、湿地帯だらけの平野を変貌させた。
 それが江戸期に著しく進展したのは、NHKの『ブラタモリ』でもおなじみになったようだ。江戸や大阪だけでなく新潟や彦根、名古屋といった現在の都市は水運と治水によって生産と流通センターとなり都市形成が徳川三百年に進んだのだ。
 近世史の視点として地形とか景観、あるいは土地利用の変化というのは重要なのだ。
つまり、平和的統治の持続を可能にした家康公は日本近代化の創始者であったというわけだ。戦国時代の民衆のエネルギーと技能を列島の平地改造に振り向けたのだ。
昨日のメモで「江戸期の文化的生産力」を高いものだとしたが、産業の生産性向上が下部構造として進展したからこそ、経済的余剰のおかげで文人たちがノラクラと随筆を書く余裕がでたわけであろう。
 この時代に平地の景観は変化したといえるのだろう。もちろん明治以降にもそれは進行したのだが、昭和に至るまでに自然景観と環境は大きく損なわれたといっていい。

 歴史視点としての地形・景観もののポピュラーなシリーズ。

日本史の謎は「地形」で解ける (PHP文庫)

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