多度大神の入信

 三重県は桑名の多度大社は神韻縹渺たるお社、それにそれを囲繞する豊かな自然に恵まれた聖域である。
 しかしながら、実はこの神様は西暦七百六十三年には仏教に帰依している。奈良時代後期には伊勢の地方神も篤く三宝を敬うようになってゆくのだ。
 その結果できるのが、神宮寺である。
多度神宮寺がそれだ。残念ながら、その建造物は戦国時代に焼き払われている。
 その仏教に帰依する経緯が興味を惹く。
 多度神が重い因果応報の罪のため、神からの離脱、罪障消滅をを図りたいという託宣が下るのだ。おそらく巫女を通じての神託であったのだろう。

 多度神の本体は蛇体であるらしい。それは、龍とも云われた。この伊勢地方の神々は多賀にしてもそうだが、多賀=蛇我や多度=蛇土というように蛇を本体としていると思える。
 それ故に、伊勢地方の民衆は多度の神は雨や風、水火の災いに霊験ありと信ぜられたようだ。
 この仏教に帰依するプロセスで託宣を伝える巫女の権能は次第に弱まった。習合の結果から、神官は男に移り変わったゆく。まして蛇身の神はしばしば邪神と同一視される場合もあっただろう。もとはといえば常陸国風土記の夜刀神の伝承、例の箭括氏麻多智の逸話にあるように、国津神はしばしば官庁の役人や開拓者たちと敵対した。 神宮寺も開拓の手先であるといえよう。仏教は人間優先だからだ。寺院は自然環境や地域コミュニティへの悪影響を及ぼすこともあった。

 思うに、民俗学は中世の神仏習合の動きを無視しているようだ。それも維新の時代の廃仏毀釈からの影響を脱しえなかったためだろう。
 民衆の精神誌に深みを加えるには、千年におよび神道と仏教の折衷の蓄積を無視してはいけなのだろう。