自分と神社と日本人論

 近代社会においては宗教は政治経済と切り離され、自然科学による還元主義的なな世界像に侵食される。その結果としては、かろうじて価値観や人生観にその活動の場を残すだけとなっている。
 世俗化とマックス・ウェーバーは概念化した。R.D.レインならえば天使の不在はニュートン力学と別問題であると散文詩にするところだろう。

 そういうご時世で、神社に共感を寄せる意義はなんなのだろうか?

・古代人/先祖の遺産 代々の置き土産 
・歴史の原点 この地に生きた人びとの精神的活動を伝える。古墳と神社の連携
アニミズム的な古き信仰の地域的な具象化 
・建築など造形、侘び寂びと武士道の原点
・自然との交流 山や樹木の崇拝や自然との共生の姿
・動物との親和 狛犬、お狐さま、八咫烏、それに調神社の兎など

なにやら未熟な表現と概念的な混乱があるけれど、自分のうちなる神社とは宗教に限定されない歴史的感性的自然共生園の一つのモデルなのだ。

 イスラム国やキリスト教原理主義との対比で神道型の宗教はオブスキュアで日和見的なものだ。だからこそ、道教と溶けこませ神仏混淆となり、神宮寺のように神がブッダに帰依する現象が起きた。あるいはこの折衷主義的な精神のあり方は日本人の思考様式そのものずばりなのかもしれない。

外来語がごちゃ混ぜの日本語は折衷主義的である。その食物的典型は「菓子パン」だ。
 木村屋のアンパンに始まりコッペパンやジャムパン、カレーパンに終わる、その菓子パンのバカバカしいほどの多種多様性から、日本人論を語り始めなければならないんじゃないだろうか?