『ヘーゲル読解入門』の読解例入門 -経営者と従業員の弁証法-

 コジェーヴの名著『ヘーゲル読解入門』(国文社)の読み解きを「経営者と従業員」という観点から実行してみるとしよう。従業員は非正規とするのが順当だろう。しかしながら、現代日本の貧相さを増す雇用状態からすれば、正規従業員こそ当て嵌まるのだする立場もあろう。
引用はすべて上妻精と今野雅方の訳文によっている。

 この『ヘーゲル読解入門』はヘーゲルの処女作にして恐るべき射程をもつ難解な『精神現象学』を悲惨な歴史体験をもつロシア知識人が解読する体裁をとっている。
 哲学書のスタイルをとっているが、自分には文学的な随想に思えてならない。しかも、用語法はヘーゲル思想をまとっていて、これぞ「真理」という断言がスコラ神学的でもある。
 この本のもとになった講義がバタイユラカン、カイヨワなどフランス知識人たちを魅了したのは十分にわかる。

 ここで取り上げる第一章「序にかえて」には、主=主人と奴=奴隷という言い回しが出てくる。当時の読みではブルジョワ階級とプロレタリアートという解釈であったのだろう。
 現代人、現代日本人はそこを経営者と従業員と読み替えれば、ありきたりな人生論や労働論よりも異質で歴史的な構造をともなった理解ができることを示したい。

 自我の発生から、あるいは自意識の発生を解き始めるのが『精神現象学』だった。
そして、その自立的意識が独立性をもって存在を開始するとき他者に突き当たる。それが従属的な立場となる時に「非自立」的という刻印を押される。それが「従業員」である。主とは「経営者」なのだ。
 序章ですでに始まりの状態から競争の場としての社会状態が与えられている。
 

 一方は自立した意識であり、この意識にとっての本質的実在性は自分だけでの存在である。他方は非自立的な意識であり、この意識にとっての本質的実在性は動物的生命である、すなわち対他的な所与存在である。前者がであり、後者がである。

 経営者は勝者であり、さらに勝利を目指す。それに従属する敗者は従業員となる。その差異は決定的だ。前者は勝利に突進する存在であり、後者は名誉を捨て「生きる」という道をとった隷属者なのだ。しかし、この隷属者はそのままにあるわけでないのが、ヘーゲルコジェーヴ解釈の妙味になる。

 このは敗れた敵であり、生命の危険を冒すに際しても最期まで突き進まず、主のもつ原理すなわち生か死かの原理を採らなかった敗者である。彼は他者によって授けられた生命を甘受したためにこの他者に従属する。彼は死よりは隷属を好んだのであり、彼が、生きてはいるのだがとして生きるのはそのためである。

 まず、経営者の精神から分析弁証法的な分析をしてみたのが次の文章だ。
経営者は従業員により承認され支えられた「確信」、つまり奴隷たる労働者たちの承認の多数正によりはじめて成立する媒介的な存在だ。組織なくば経営者ではない。経営者は唯我独尊ではない。

の「確信」は純粋に主観的かつ「無媒介」ではなく、他者つまりは奴による承認により客観化され「媒介」されている

 主は、
 一、自己意識の概念としては自分だけでの存在という無媒介的な関係であるが、
 二、今は、すなわちに対する勝利の後には、同時に媒介態として、すなわちは自己をとして承認する奴を有しなければ主ではない以上他者を介してのみ自分だけで現存在する自分だけでの存在として現存在している。

 はじめは自立していた「経営者」意識は承認者=従業員の存在なくしては自立できない状態に遷移する。

 享受として、物への無媒介的関係が構成される。すべての努力がによって為される以上、に残されているものは、が彼のために用意した物を「費消」しながら享受し「否定」し破壊することだけである

 この記述では「主」は消費主体であり、従業員を行為と結果を貪る存在という19世紀的な貴族の表現になっている。これはもはや時代錯誤的な部位であろう。先進国ではそんな単純な図式は成立しない。スターリンを尊敬したコジェーブの歴史意識の限界といえるかも。

 他方、従業員はどうであろうか?
 労働が従業員を変質させる。従業員は労働により自然の主となる。

 主は奴に労働を強制する。労働することで奴は自然を支配する主となる。ところで、奴が主の奴となったのは――当初――自然と結びつき、自己保存の本能によって自然の法則に服したために自然の奴となったからにはかならない。したがって、労働により自然の主となったとき、奴は自己自身の本性から、自己を自然に縛りつけ自己を主の奴となした自己自身の本能から解放される。

 この主張はそれほど大時代的ではない。炭鉱労働者や農民だけを対象にしているのではない。第一次産業は自然を直接的に支配する。その用具やエネルギーを供給するのは第二次産業=工場であり、それらの産業の生活パートを代替するサービスが第三次産業であろう。
 つまり、ホワイトカラーですら自然を支配する労働に従事している。都会のサラリーマンは自然の支配とは無縁ではない。むしろ、自然の支配を効率化するための情報管理がホワイトカラーの業務の本質であろう。

 一連の止揚によって従業員は「真の自立性や真正な自由」に達することができるとコジェーブは主張する。ここにはキリスト教的なルサンチマンがあるようだ。

であることを通過した後でなければ、(自己にとっては死の長怖を体現する)他者への奉仕においてなされる労働によってその長怖を乗り超えた後でなければ、人間は真の自立性や真正な自由には到達しない

 主たる経営者は労働から隔離されるために退行する。現代のどの経営者にあてはまる議論ではないようだ。むしろ、欧米の創業者はハードワークをみせびらかす存在になっている。
 経営者は、しかし、別個の課題に向き合わなければならない。自己疎外だ。従業員ではなく経営者が自己疎外に陥る。