インド独立への道のりと日本

 インド独立の最大の立役者はガンディーとネルーと相場は決まっている。
しかし、きっかけは大日本帝国の引き起こした太平洋戦争であることは案外、知られていない。

 藤原少佐の率いた光機関などが東南アジアにある植民地切り崩しをしていたのだが、そうした中でも最大級の大物協力者が、スバス・チャンドラ・ボースであったことは間違いない。

 ベルリンにあったボースは煮えきらない日独政府をかき口説いて、Uボートで来日する。
アジア民族を見下していた東條英機を説得し、自由インド仮政府が樹立されたのは1943年シンガポールであった。
 インド国民軍が創設される。東洋最大の大英帝国の要害であったシンガポール落城で投稿したインド人兵士を母体にした、最大クラスの同盟軍(再編成時に約15,000名)であった。
 だが、インド侵攻を試みた1944年3月に開始されたインパール作戦は失敗した。
やがて、1945年8月敗戦。
 ボースは起死回生に向けて日本を出国しようとし、あえなく事故死。その遺骨は日本に眠る。

 戦後処理でイギリスはインド国民軍を軍事裁判を開始しようした。その経緯は『インド国民軍』にある。結局、インド人の反応を沈静化するために将校3名だけに絞って穏便に対処しようした。

 丸山静雄によればこうだ。

 第二次軍事裁判はアブドル・ラシード憲兵少佐を被告として一月九日開始され、一九四六年二月十一日、反逆罪を不問とし、暴行罪だけをとりあげ、同少佐を七年の刑に処するという判決が下された。判決を聞くと、民衆は激昂し、カルカッタでは十二日、デモがゼネストとなって二週間、同市の機能を麻輝させ、二百数十名の死傷者を出した。

 反英運動はどれほど盛り上がったことだろう!

 三月七日、デリーにおける英軍による戦勝記念パレードではインド人は店も学校も工場も映画館も一切閉めてボイコットした。ようやく英国政府も大英帝国の権威が地に落ちたことを知ったようで、インド国民軍将兵に対する第三次軍事裁判は中止され、全将兵が釈放された。

 この後もインド全土での抗議運動が相次ぎ、刑の執行は見送りとしても、なおも騒乱は収まらない。

 独立記念日は1947年8月15日だ。ガンディーらの平和主義独立運動だけでは達成できなかったことを1年で実現することになった。もちろん、ガンディーやネルーの政治的扇動があったことにもよるが、インド国民軍という犠牲のうえに独立は贖われたとも言える。

 国力の低下の著しいイギリスの時のアトレ内閣はインドに独立を認めることになる。


インド国民軍―もう一つの太平洋戦争 (1985年) (岩波新書)

インド国民軍―もう一つの太平洋戦争 (1985年) (岩波新書)