有史以来、あるいは以前から西日本と東日本は対峙してきた。そのイベントをまとめておこう。
1)壬申の乱 672年 東国の勝利
天智天皇の息子、大友皇子と弟の大海人皇子(即位してから天武天皇)の争い。大友皇子は近江宮にいた。吉野から東国(美濃)に抜けた天武天皇はそれよりも東側の豪族を糾合して、厳しい戦闘の後に勝利をおさめた。美濃・伊勢・上野・近江の四カ国にわたる古代としてはかなり広範囲が戦場となった。
2)源平合戦 12世紀 初戦は西国の勝利 後半は東国の勝利
平氏は中国の海運をおさえて巨利をえ、西国に基盤を打ち立てた。他方、源氏は前九年・後三年の役で東国武士の間に支持基盤を持っていた。ついには源頼朝が東国に独立政権を樹立し、朝廷をもその支配下におくことに成功する。
3)南北朝 14世紀 西国の挑戦と全国の戦乱 西国の勝利
後醍醐天皇という野心家が近畿地方周辺の反幕府勢力を煽りたて、鎌倉幕府を倒す。それは東国の武士勢力の分裂を利用したものだった。やがて建武の新政に反発した武家勢力が離反し、後醍醐天皇を京都から追い出す。室町幕府という西日本的な政権が誕生する。
東日本代表であった新田一族は敗北を重ね、南朝勢力とともに衰退する。北畠顕家も東国勢力を南朝側につけて善戦し、近畿に攻め入るが敗北する。二十歳で惜しくも敗死した北畠顕家はもっと注目されてい悲劇の逸材だろう。
足利氏は京都で将軍職に就く。ここに権力の中枢を置き、東山文化を築く。
4)安土桃山時代から関ヶ原 17世紀 東国の勝利
中部地方発の織豊時代は短期で終わりを告げる。豊臣方の西軍と徳川方の東軍は必ずしも、西日本と東日本という区分けではなかった。しかし、関ヶ原合戦の後、東日本に拠点をおいた徳川政権により次第に東日本中心の国土運営になっていく。東国の勝利といっていいだろう。徳川には旧武田家家臣や今川家家臣、後北条氏の家臣などが多かった。
5)明治維新 19世紀 西国の勝利
徳川政権への反抗として薩長土肥などの西国雄藩が維新の原動力となった。
おそらく、壬申の乱の以前に「倭国動乱」があったはずだ。それは卑弥呼政権という西日本を統括した政治勢力への東側の勢力の反抗として起きた可能性が高い。
いずれの大変動も西と東の対立図式から発生した経緯があるからだ。そして、中部地方はなぜか主導権を地元に維持できないというのも興味深いことだ。
それはともかく、思想においても未だに西日本と東日本は対抗心を持つことがあると網野善彦は指摘している。典型例は邪馬台国の畿内説と九州説の対立だという。前者は西日本系の学者が後者は東日本系が多いということだ。家畜の使用や交通様式などの差異もある。
源平争乱、南北朝、関ヶ原や明治維新までの動乱はよく知られているが、壬申の乱ももう少し知られてもよいのではないか。しかし、近畿と中部の局地戦であったかもしれない。
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