民間伝承の可笑しさと哀れみと

 柳田国男の『山の人生』が青空文庫化された。まことに慶賀すべきかな。
 その引用が自在になったので、この書のもたらす奇妙な味わいともいうべき感じについて書き記すとしよう。
 この書が不思議の事実を集めて、いわゆる山人が原住の種族であるとした初期の作品であるのは知られている。
 早速、引用しよう。

 青麻権現の奇跡と同じころに、同じ仙台領の角田から白石の辺にかけて、村々の旧家に寄寓してあるいた白石翁という異人があった。身のたけ六尺眼光は流電のごとく、またなかなかの学者で神儒二道の要義に通じていた。
 この翁の特徴は紙さえ見れば字をかくことと、それからまた源平の合戦を談ずることとであった。年齢は言わぬが誰を見てもセガレと呼び、角田の長泉寺の天鑑和尚などは百七つまで長命したのに、やはりセガレをもって交わっていた。或る時象棋をさしていて、ふと曲淵正左衛門の事を言いだしたが、この人は二百年前にいた人であった。

 信じやすき庶民をたらしこんで悠々自適に生きる変人談ともいえるのだが、
年齢は言わぬが誰を見てもセガレと呼び、角田の長泉寺の天鑑和尚などは百七つまで長命したのに、やはりセガレをもって交わっていた。
 誰を見ても「セガレ」と呼びつけるのは、なんとも言えない可笑しさがある。

 昔の人の信仰や伝承というのはある信仰の基盤があって、その上に構築された要素から出来上がる。そうした一種のパラダイムを踏まえておけば人々は簡単に騙されるし、崇められる。それが『烏滸(おこ)の文学』に繋がってゆく。
 事実とのゆるい結合、固有信仰との強固な結合により民間伝承は永続し、伝播する。それが古き良き日本マインドなのだろう。

 この二つの実在の寺にまつわる話も昔の人々の信じやすさを物語る。
安養寺(東京都府中市本町1丁目17−1)
東樹院(神奈川県横浜市港南区笹下2丁目24−17)の話

 本文にはこうある。

 東京の近くでは府中の安養寺に、かつて三世の住職に随逐した筑紫三位という狸があって、それが書いたという寺起立の由来記を存し、横浜在の関村の東樹院には、狸が描くと称する渡唐天神の像もあった(『新篇風土記稿』二十四および二十八)。


 寺の和尚などはそれなりの知識人であるのは江戸時代も変わらぬはずだ。さりながら、寺も檀家も丸ごと騙され化かされ「たぬきが描いた画」と信じる。
 柳田翁は、その他愛のなさにそうした昔の人々への限りない懐かしさとともに、なんらかの信仰の根源が共通してあるはずだと信念を持ったのだと自分は思う。

 そういう点で興味深い事例がある。
 江戸期の最高級の識者である広瀬旭荘の談話だ。

『九桂草堂随筆(きゅうけいそうどうずいひつ)』巻八には、また次のような話がある。広瀬旭荘(ひろせきょくそう)先生の実験である。「我郷(豊後日田(ひた)郡)に伏木という山村あり。民家の子五六歳にて、夜啼きて止まず。戸外に追出す。其傍に山あり。
 声やや遠く山に登るやうに聞えければ驚きて尋ねしに終に行方知れず。後十余年にして、我同郷の人小一と云ふ者、日向の梓越(あずさごえ)と云ふ峯を過ぐるに、麓より怪しき長七八尺ばかり、満身に毛生じたる物上(のぼ)り来る。大いに怖れ走らんとすれども、体痺れて動かず。
 其物近づきて人語を為し、汝いづくの者なりやと問ふ。
 答へて日田といふ。
 其物、然らば我郷なり。汝伏木の児失せたることを聞きたりやと謂ふ。其事は聞けりと答ふ。其物、我即ち其児なり。其時我今仕ふる所の者より収められて使役し、今は我も数山の事を領せりと謂ひて、懐より橡実(とちのみ)にて製したる餅様(もちよう)の物を出し、我父母存命ならば、是を届けてたまはれと謂ふ。何れの地に行きたまふかと問ふに、此(これ)より椎葉山に向ふなりと言ひて別れ、それより路無き断崖に登るを見るに、その捷(はや)きこと鳥の如しといふ。話は余少年の時小一より聞けり。是れ即ち野人なるべし。」

 この読後感はまさに『遠野物語』のものだ。あるべからず怪異談であるけど実在の人物を信用できる人の談話から拾い出す。
 不思議の感とともに「我父母存命ならば、是(これ)を届けてたまはれと謂ふ」
と人情の機微を漂わせる。
 広瀬旭荘のこのような江戸期の実話が柳田の「遠野」の文体的背景にあったのではないかと考えこませる。

 そして、「寒戸の婆」だ。

遠野物語』の中にも書いてある話は、同郡松崎村の寒戸というところの民家で、若い娘が梨の樹の下に草履を脱いで置いたまま、行方知れずになったことがあった。三十何年を過ぎて或る時親類知音の者が其処に集まっているところへ、きわめて老いさらぼうてその女が戻ってきた。どうして帰ってきたのかと尋ねると、あまりみんなに逢いたかったから一寸(ちょっと)きた。それではまた行くといって、たちまちいずれへか走り去ってしまった。その日はひどい風の吹く日であったということで、遠野一郷の人々は、今でも風の騒がしい秋の日になると、きょうは寒戸の婆(ばば)の還ってきそうな日だといったとある。
 これと全然似た言い伝えは、また三戸(さんのへ)郡の櫛引(くしびき)村にもあった。以前は大風の吹く日には、きょうは伝三郎どうの娘がくるべと、人がことわざのようにしていっていたそうだから、たとえば史実であってももう年数が経過し、昔話の部類に入ろうとしているのである。風吹(かぜふき)ということが一つの様式を備えているうえに、家に一族の集まっていたというのは、祭か法事の場合であったろうが、それへ来合せたとあるからには、すでに幾分の霊の力を認めていたのである。
 釜石地方の名家板沢氏などでは、これに近い旧伝があって毎年日を定め、昔行き隠れた女性が、何ぴとの眼にも触れることなしに、還ってくるように信じていた。盥に水を入れて表の口に出し、新しい草履を揃えて置くと、いつのまにかその草履も板縁(いたべり)も、濡れているなどと噂せられた。この家のは娘でなくて、近く迎えた嫁女であった。精密な記憶が家に伝わっており、いつのころよりか不滅院量外保寿大姉という戒名をつけて祀っていた。家門を中心とした前代の信仰生活を、細かに比較研究したうえでなければ断定も下されぬが、恐らくはこれが神隠しに対する、一つ昔の我々の態度であって、かりにただ一人の愛娘などを失うた淋しさは忍びがたくとも、同時にこれによって家の貴(とうと)さ、血の清さを証明しえたのみならず、さらにまた眷属(けんぞく)郷党の信仰を、統一することができたものではないかと思う。

 失われた家族(これは神隠しに限らない、遺骸を残さぬような失踪は明治以前には今以上に頻発していたことであろう)を思う心持ちというが、このような願望に結実したといえる。
 「寒戸の婆」は実体がなくとも、風の強い黄昏時に家族のもとにそれとなく舞戻っている、そういう心持ちを信心とも幻想とも希望ともつかぬ、あるいはいずれも入れ込んだ夢想を残された家族は共有することで、死者を弔うことができたのだ。
 これを現代風のメルヘンに昇華したのが、宮沢賢治の『風の又三郎』であるのは言うまでもあるまい。

山の人生 (角川ソフィア文庫)

山の人生 (角川ソフィア文庫)