姥神をめぐる柳田翁の思考の片鱗

 柳田国男の著作はまことに読みにくい。
柳田翁の並べ立てる事実から推論した理論や仮説というのが見え難い。著者の主張と人々の行為や想像がないまぜにされている。

 『年中行事覚書』のなかに姿をほんの少し見せる「ダイシ」の信仰もその一つだろう。里山を多くの子どもを引き連れて歩きまわる「神」がかつてはいた。それが大師信仰や太子信仰に吸い込まれていったというのが本当に柳田翁が言いたかったことだ。
 弘法大師空海の伝説には井戸や杖の成長して木になる説話が多い。それと似ている聖徳太子の伝説だが、聖徳太子木地師など職人の守護神に成り代わるのだ。
 大師信仰は奇妙な特徴をまといつけていることを柳田翁は指摘する。片足しかない、もしくはデンボ=ビッコの神なのだ。また、片目の魚や片葉の植物が大師信仰ではよく現れる。この片目やチンバというのは、古き神の御姿なのだと柳田翁は夢想している。 柳田翁は表立ってその存在を主張していはしない。多くの子どもを引き連れているという群行神であろう。
 若い層向けの著述である『日本の伝説』では冒頭に「咳のおば様」を置く。一見、不気味な老婆の石像がこどもの咳を治す願掛けの対象になる。病の癒えたお礼には炒り豆を添える。そんな素朴な迷信(柳田翁はそういう表現はしない)が全国にあることを指摘するのだが、子安信仰とも重なることも書きつける。
 姥神とそれらを総称するのだが、それは水辺の神でもあるのだとする。実のところ、女が池や淵に身を投げるという説話はいたるところにある。井戸に身を投げるというのもその枠内にあろう。番町皿屋敷もその系列とみなせる。
 水辺の女神というとローレライのようなロマンティックなイメージがあるが、姥神が元型的だと柳田翁は考えているらしい。しかも片足が萎えているのだ。

 全国に残る常民の言い伝えのなかから,そうした形象を象嵌してみせるのだ。
神像として片足の姿が造形化された形跡がないのが、この説の弱みだろう。一つ目小僧やイッポンダタラにその片足性が遺伝されてはいるが、神の姿とはもはや言えない。
 それはイマジネーティブな詩人でもあった柳田翁の束の間の幻影だろうと思う。


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