石神信仰から石合戦へ

 柳田国男と関係者の往復書簡集の『石神問答』はたびたび取り上げたが、その主要な問答相手の山中共古は、クリスチャンにして旧幕臣でありながら、山梨県の民俗の研究に余生を捧げた。
 山梨県にあってその影響下にあったのが、中沢厚である。中沢厚は『つぶて』の研究者であることに、面白き因縁を感じる。そして、網野善彦中沢新一が連なる。
 山中共古は「石神がオシャモジ杓子に轄ぜしと存候ことは音の通転し易き為に候」として早くも、おシャモジと石神(しゃくじ)の関係を見抜いているのが、じぶんには感動的だった。
 主婦がおシャモジをかつぐのは五穀豊穣と多産の原始的祭礼を受け継ぎ、電子炊飯器でも石棒の末裔を使い続けているというのはナントすごい儀礼ではないか!

 山梨県における丸石信仰は『石神問答』には登場しない。『神を助けた話』で「小夜の中山」の夜泣き石の伝承で地元では「丸石」と呼ぶとあるばかりだ。小夜の中山峠は静岡県掛川である。また、「つぶて」に関しては『七塚考』で美作での礫刑で触れているだけだ。信仰対象としての石と道具としての「つぶて」は柳田国男では別物とされていたようだ。
 投石が含意するものは中沢厚古今東西の事例から示されるように、人類の普遍的な行為である。聖書にもフランス革命にも南北朝の乱でも、全学連の騒乱でも石投げは攻撃の容易な手段として特筆もされることなく記録される。
 石合戦となると意味合いが異なる。戦前までは習俗として石合戦があちらこちらに残存していた。中沢厚の著作では笛吹川の河原での石合戦が回想されている。河の両岸で対峙した若者たちが石を投げ合う、そればかりか悪口雑言をやりとりする。それは戦国時代さながらの遺風といってもよい。西洋ではこれに類した行事はなかったようだ。

 境界守護のサヘノカミが石神であることを自分は考えたい。川という境界を挟んで石神の分身(つぶて)をもって差異を確定するのだ。塞の神、外来者を塞ぎ遮る霊的な存在の象徴的行為が「石合戦」であるというのが自分の解釈である。



 中沢厚のこの名著が20年以上経つのにまだ4刷だというのは信じられない。 

つぶて (ものと人間の文化史 44)

つぶて (ものと人間の文化史 44)


 「石神問答」の概要はこの文庫に収納されている。