死ぬまでの自我喪失の模様を予想する

 入眠時幻覚というのがある。意識が薄れゆくなかで抑圧されていた識閾下の活動が自由に蠢きだす。その瞬間は、我らの死にゆく時は似ているのだと思う。

 もう少々、分析的に死ぬ意識についての予想を書き連ねておこう。
脳=意識を成り立たせている機能モジュールというのがある。人の顔を認識したり、文字を読んだり、味わいを感じたり評価したり、それぞれ分離的独立的な機能の束が脳内に局在しているようなのだ。
 それらを統覚して自己反芻するのが自己意識といっても良いだろう。自己状態モニタリング機能といえば、それらしい響きになる。
 死は、統覚機能を解体することに等しい。現在、ここにあるという現存在の基盤が崩壊するということである。脳の個別な機能モジュールが勝手に走りだすことにもなる。
 それは取りも直さず、今ここにいるという身体性感覚から切断されてゆくことにもなろう。
 死により意識の黄昏を迎える。意識の黄昏とは自分がどこの誰であるかもわからす、身体感覚を喪失した状態であるのだ。その時点で肉体的な痛苦からは解放される。それと引き換えに、自分の空間的局在も希薄化するのだろうと予測される。

 脳機能の理解からは上述のような薄明のうちに自我が失せゆくととも、無数の想念が過去の記憶を含めて、解き放たれるであろう。それがパノラマ現象とも言われる。また、バルド=ソドル(死者の書)でいうイリュージョンに相当するものでもあろう。
 今の自分という当事者意識は現存在に関わる多数のチャネルを維持し、ある秩序のもとにガバナンスを利かせている。それが緩和してゆく体験を「自我の死」と呼ぶのだ。
 死ねば過去の人となる。生きることは現在にあり続けることであり、今という状態を更新することである。今に追随できなくなることが死である。死にゆく意識は、身体性から距離を離しながら、やがて「今」と切り離されるのだ。

 「過去の人」となるその切断プロセスが死の意識経過であるという表現もできるのではないだろうか?

西洋流の死の体験

死にゆく時―そして残されるもの

死にゆく時―そして残されるもの

アメリカの病床意識研究。この人類学者は最後まで生を諦めない

ボディ・サイレント (平凡社ライブラリー)

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立花隆の力作を忘れてはなるまい。死に際して脳内の一部が最後まで機能するというのは考えられることだ。
それが臨死体験となって、帰還者から語られるのだ。

臨死体験 上 (文春文庫)

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臨死体験 下 (文春文庫)

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正岡子規は死に臨んで死を直視せず、無数の細目に生の気配をみなぎらせる

病牀六尺 (岩波文庫)

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正岡子規の同時代人の兆民は、これもしぶとい余生を生きる。

一年有半・続一年有半 (岩波文庫)

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