群馬の古代人 「羊」

 群馬県の石碑に「多胡碑」がある。場所は高崎市吉井町池字御門です。
三大古碑の一つで、国の特別史跡でもある。

弁官符上野国片岡郡緑野郡甘
良郡井三郡内三百戸郡成給羊
成多胡郡和銅四年三月九日甲寅
宜左中弁正五位下多治比真人
太政官二品穂積親王左太臣正二
位石上尊右太臣正二位藤原尊

 その前半の書き下し文を抜き出して、訳する。

弁官の符に、上野国の片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の中から三百戸を分けて新しい郡を作り、羊に支配を任せる。郡の名前は多胡郡とせよ。

 この「羊」なる人物が論争の的になった。不自然な響きなのだ。ところが正倉院の古文書や万葉集にも「羊」なる姓名は散見される。今では渡来人系の名前の人物ということで、一致しているようだ。

埼玉苗字辞典の「羊太夫」伝説を
引用する。

 多胡羊太夫 
 天児屋根命の後裔忠臣羽鳥連は物部連にくみして上野国へ遠流となると伝説あり。中臣(なかとみ)を忠臣と記す。呉国出身の毛野氏に率いられた呉服(くれはとり)の百済族であり、中臣姓は仮冒なり。クレ条参照。羽鳥氏は前橋市に百八十戸存し、笂井村・亀里村等に多く存す。前橋市元総社町釈迦尊寺文安二年刻碑に「此寺開基忠臣羽鳥連、人皇三十二代丁亥二年来居、同妻玉照姫・聖徳太子乳母也。同忠臣菊野連・羽鳥嫡子。同忠臣羊太夫・菊野嫡子、和銅中移多胡郡池村改姓」とあり。多胡羊太夫は阿部族と称す。緑野郡上落合村宗永寺縁起に「羊太夫、諱小水麻呂、姓阿部。其先天児屋根命遠裔中臣羽鳥孫、菊野連子也。人皇三十二代用明帝崩御時物部大連叛、羽鳥党之、羽鳥謫上野国府蒼海・今之本惣社也」と見ゆ。比企郡平村慈光寺所蔵の大般若経は緑野郡浄法寺(鬼石町)のものだったと云う。慈光寺実録に「和銅元年、上毛国多胡郡羊太夫に勅命有て、大般若経を令書写、当山観世音へ備へ給ふと矣。又小水麻呂と云は羊の孫也。高祖父の志を紹継して、貞観十三年三月三日六百卷書写して今現存せり。依て世に羊の般若称すれ共、今多分は小水麻呂なり」と。大般若経奥書に「貞観十三年三月三日、檀主前上野国権大目従六位下安倍朝臣小水麻呂」とあり。慈光寺新実録に「羊太郎―多胡古丸―小水麻呂」とあり。古代氏族系譜集成に「阿部比羅夫(斉明帝、征蝦夷将軍)―広目―象主―益成―小水麻呂」と見ゆ。小水麻呂は上野国の古代阿部族であり、中央貴族の阿部氏後裔説は仮冒なり。甘楽郡高尾村(富岡市)仁治四年二月二十六日銘の板碑に「物部、小野、壬生、六人部、日奉、藤原、安部国宗」あり。宗を通字としており、羊太夫の後裔であろう。

 古代には関東の渡来人はしばしば国司に任命されることが多かった。

 『古代の日本7 関東』より

 百済系の渡来人が多いのに気がつく。
 つまりは、関東モンは渡来人の血筋を多かれ少なかれ引いているのであり、とりわけても北関東の神社にはその名残がある。それも相当に色濃い。

 多胡神社もその系統だ。羊太夫を祀る。


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