論理学と「維摩の一默」

 ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』のラストのセンテンスが、
「およそ語られうることは、明晰に語られうるし、語りえないものについては沈黙しなければならない」とあるのは幾多の解釈をうんだ。
 それまで連綿と合理的に考えることを考察してきた挙句の締めの一言だ。
ウィトゲンシュタインには形而上学的衝動や宗教的なジレンマがあったことは、詳細な研究や伝記によって判明してきている。語り得ないことを語り得ることの境界の外に規定したことで、その衝動を示そうとしたとも推測されるわけだ。また、ハイデッガー哲学を批評して真理を伝えようとして、言葉の表現臨界に突き進む態度を理解できると語ったこともある。

 師匠筋にあたるバートランド・ラッセルには『神秘主義と論理』というかなり底の浅い論述がある。それでも、そこからは語り得ないことと語り得ることに対比の根底が透けて見える。確実な真理や確実に伝達可能な文言は、自ずとそれに適した対象があるということなのだろう。

 明晰に語られることは、実は非常に狭い範囲でしかなく、それには思いもしないような制約や問題が内在していることを後期のウィトゲンシュタインは明らかにした。
 つまりは、自然科学が論理的で明晰であろうとすると、そのスコープは自ずと限定されてゆくのだ。自然科学で解き明かされたことで「世界」が真昼の大地のように明らかになったというのは、激しい思い込みか勘違いだ。
例えば物理学の基礎理論で世界が完全に理解できるというのは、そういう前提をもつ「形而上学」の一つでしかない。量子力学や相対論はその対象を狭く限定しているからこそ、その範囲で明晰であり、「観測と一致」しているのだろう。

 大乗仏教の基本著述の『維摩経』をさいごに持ちだしてこよう。もともとは在家仏教の根拠付けの書だ。その結尾では、一市井人の維摩文殊を感嘆させるほどの悟達の境地にあることを示すのが「維摩の一黙」とされる。

「すべてのことについて、言葉もなく、説明もなく、指示もなく、意識することもなく、すべての相互の問答を離れ超えている。これを不二法門に入るとなす」

文殊が上から目線で諭すと維摩は「維摩の一黙」で答えた。

 自然科学も矩をこえて語ろうとすれば駄言になりかねない、別の意味で維摩の一黙を見習うほうがいいだろう。
 不二法門を超越するのがこの沈黙とも読める。ウィトゲンシュタインの「沈黙」と奇妙に響きあうのだ。

論理哲学論考 (岩波文庫)

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維摩経 (佛典講座) 新装版

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