おもしろき史家 上田正昭教授

 上田正昭氏は興味深い現存の歴史学者である。

 神官の道を最初にあゆみ、國學院大學に入学。その後、京都大学で史学を学び直す。こうした経歴から氏の学問には民俗学神道の知識や雰囲気が漂う独自なものとなる。

 重ねて、氏の来歴を面白くしているのが、大本教との関連である。上田という姓は出口王仁三郎の名と関連がある。実は、王仁三郎とは顔見知りであった。王仁三郎のフルネームは上田喜三郎だったことを思い起こそう。
 二人は小幡神社の氏子同士であり、上田家(に正昭は婿入りした)はその神官だったのだ。大本教と関係が深く、『大本七十年史』の編纂にも関与している。
 そう、出口王仁三郎をいまだに聖師と呼ぶくらいだ。ココらへんに、講壇歴史学者との違いがあるのだねえ。出口王仁三郎の精神的系譜を受け継いだ者を反日というのは土地勘が狂っているしか言いようがない。
 つまりは、神道の本義やその源泉を常人より知っているのだ。

 渡来人に関してもラディカルと思われるような主張をする。それが、ネットで物議をかもしているようだ。

 日本の神社には朝鮮半島由来のものが数多くある。半島の影響は風土記には明らかであるし、これは伴信友内藤湖南なども指摘しているのだ。

 その状況証拠を素人的ながら書き留めて、供覧に呈しておく。

 記紀を文字に置き換えるその編集の任には渡来文化(百済王朝の亡命者ら)に影響を受けた人々が関与したのは、間違いない。それ以前の文字記録は断片ばかりだし、大和朝廷のメディアは記憶中心、つまりは、口承文化中心であったろう。稗田阿礼がそうだ。
 天武朝というのは白村江の戦いの後、百済王朝からの王族貴族が朝廷に多数存在した時期であろうし、その同じ頃に日本書紀は編纂されていた。
 神道の成立に際して、とくに日本神話にその影響が大とする上田正昭氏の主張はおかしくないであろう。ある意味で、朝鮮半島の渡来文化の遺産については、故司馬遼太郎と平仄を合わせていたと言うべきであろう。
 氏は司馬遼太郎金達寿の「日本の渡来文化の座談会シリーズ」の常連の一人であった。これらの座談は今読んでも、よく往時を偲ばせる内容であり、司馬遼太郎は上田を史学会における盟友とも考えていたろう。

 氏の著作物には、したがって、古代の情念やヤオロズの神々に加えて、渡来人の息吹きが感じられ、そのあたりは他の歴史家との格別な差となっている。神道を信じ、大本教という神道ルネサンスの現場に居合わせた氏の来歴はユニークなのだ。
 もう一つ、半島の渡来人らも神道的な信仰を分有していた。それ故、大和の地にも「人を神にまつる」習慣を受け継いでいる。各地の残る渡来人系の神社はそのエビデンスだ。いま、そのことを重要な指摘としておきたい。


 おそらくは百済系の人々は古代大和にだけ、その文化的遺産を移し込むのに成功したのだろう。その滅亡の後、朝鮮半島では儒教一色に塗り込められていく。ウラル系のシャーマン=巫女などの土着信仰は体系化されずに切れ端が残存する。
 百済やその民の民間信仰は渡来人とともに列島において生き残る。縄文時代からの土着信仰と折衷しながら神道に発展してゆくわけだ。
 半島の古代文化と渡来人の文化遺産は半島には残されずに日本列島にその後継者がいるのだ

 以上は、下記の書籍を読んだ末の実感ですね。


新版 日本神話 (角川ソフィア文庫)

新版 日本神話 (角川ソフィア文庫)

大和朝廷 (講談社学術文庫)

大和朝廷 (講談社学術文庫)


【平成25年追記】 上田氏が聖師と呼ぶ「出口王仁三郎」言行録の編纂書
 

「みろくの世」―出口王仁三郎の世界

「みろくの世」―出口王仁三郎の世界


平成24年追記】上田氏の情念を注ぎ込んだ著作が刊行された。

日本の朝鮮文化 座談会 (中公文庫)

日本の朝鮮文化 座談会 (中公文庫)


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