七年前のことです。四国の淋しい路傍で最も神秘な傀儡師を見ました。至妙な演戯よ! 私の心は涯もない夢幻の奥へ誘はれてゐたのです。けれども終生忘れることのできないのは(そして彼は暫く深々と感動の瞑目をつづけてゐました)ふと自分に返つたとき、芝居を終へた人形の額に汗のジットリ滲んでゐるのを見出したのでした。
晩年の寺田寅彦はある日、文楽をはじめて鑑賞する。
物理学者の文楽評論はどのようなものであったか。
松王丸の松王丸らしいのに驚かされた。人間の役者の扮した松王丸の中には、どうしても、その役者が隠れていて、しかも大いにのさばっているために、われわれは浄瑠璃の松王丸を見るかわりに俳優何某の松王丸しか見ることができないのであるが、この人形の松王丸となると、それが正真正銘の浄瑠璃の世界から抜けだして来た本物の松王丸そのものになっている。つまり絶対の松王丸になっているのである。そうしてそれがそれほど誇張されない身ぶりの運動のモンタージュによって、あらゆる悲痛の腹芸を演ずるからおもしろいのである。
人物の背後にある俳優がいないために「絶対の松王丸」が現成というのが寅彦先生の感嘆ぶりを言い尽くしている。
この表現は和辻哲郎の「超地上的な輝き」に相応するものだと思う。
さて、寅彦先生によればその「絶対性」の意味は下記のようなものだ。
女形が女よりも女らしく、人形の女形のほうが生きた女形よりもさらに女らしいという事実にも、やはり同じような理由があるのではないか。もともと男は決して女にはなれない。それだから女形の男優は、女というものの特徴を若干だけ抽象し、そうしてそれだけを強調して表現する。無生の人形はさらにいっそう人間の女になれるはずがない。それだからさらにいっそうこれらの特徴を強調する。その不自然な強調によって「個々の女」は消失する代わりに「抽象された女それ自体」が出現するであろう。
セリフの音響的分析もこの鋭利な観察者の注意をひいた。
人間の扮したお園が人形のお園と精密に同じ身ぶりをしたとしたら、それはたぶん唖者のように見えるか、せいぜいで、人形のまねをしている人間としか見えないであろう。しかるに人形のお園は太夫の声を吸収同化してかえってほんとうのお園そのものになりきってしまうのである。ここに人形劇の不思議があり、秘密がある。
そういえば、批評家の小林秀雄もこう発言していた。岸田國士『批評家・作家・劇場人』によれば、
文楽を観た後、「本物の芝居など必要はない」と思ひ、「それまで自分が追つてゐたものは、演劇といふものではなかつた、とはつきり悟つた」
世界でも珍しい大人のための芸術的人形芝居に魂を奪われた最後の種族であろうか?
中江兆民や正岡子規など明治大正期の人々の多くが、文楽という人形劇に大きな魅惑を見出していた。いまではそれを引き継いでいるのはドナルド・キーンくらいか?
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