ユルスナールの訪日経験

 1982年日本が経済的な栄華の夢に浸っていた頃、特異な芸術家が訪れた。マルグリット・ユルスナール
 女性ではじめてのアカデミー・フランセーズに迎えられた小説家である。
 かねてより「源氏物語」と三島由紀夫の国に憧憬をもっていた彼女は79歳になってから、はじめて自分に東方の国への最後の旅を許した。死の5年前だ。

 読んだことがある彼女の小説は『とどめの一撃』だけだが、それは十二分にインパクトをもつ内容だった。第一次世界大戦でひょんなことから敵味方に引き裂かれた男がおのれの手で恋人を銃殺するに至るまでのストーリーだった。

 ユルスナールドナルド・リチーという知日家の案内で日本を、とくに東京を堪能する。
 リチーの紹介をもとに彼女の日本経験をまとめてみよう。

 1980年台の日本はバブルに幻惑されて、ほとんど文学的感性の足の踏み場のないほど経済的欲望に満ちあふれていた。不動産と株に酔い、富と浪費に自分を失っていた日本人しかいなかった。お立ち台に象徴される動物化されたポストモダンとでもいえる空虚なトポスが東京だった。
 つまりは、あの時期に源氏物語の情緒を求めて訪日してもそれは幻滅に終わるのは明らかだった。
 けれどもユルスナールは、十分に成熟しており、バブルの見かけの背後に埋もれた伝統的感性の残滓を見出すことができた、そう結論してもいいだろう。

 だからこそ、死後、公表された日記に「東京は江戸の本質を立派に受け継いでいるのである」と書くことができたのである。

 日本国中を旅して、西行のように感想を書き残すこともできた。

旅で目にした各地の風景のあまりの美しさに、風邪を引いたことさえ幸せだと感じる

 圧巻は玉三郎との対談であろう。歌舞伎俳優は『ハドリアヌス帝の回想』を読んでいた。西洋の精神の代表ユルスナールと内実のある会話を交えるというのは、まれな邂逅、貴重な記録だと思う。
 アンテイノースというハドリアヌスの「恋人」を言及しえたことこそ、東西の異なる精神の一瞬のコンタクトがあった。
リチーをそのまま引用しよう。

「そこで私は、ダ・ヴインチが美のプロポーションについて書いていることを話した。何かが美しいと感じられるときには、完全なプロポーションが破られていなければならない。ある種の不調和があって、初めて美が生まれるのだと」。それからマダム・ユルスナールは、改めてこの有名な女形をつくづく眺め、後にこう書く。「グンタ・ガルボを思い出させる。彼もガルボが大好きだというが、二人には確かに同種の美しさがある。この美は、当人とわれわれとの距離感、断絶が生み出すものだ」

 ユルスナールは老いさらばえた自分と優美な女形を「グレタ・ガルボのようだ」と書き残す。自分は「老いて乞食となった卒塔婆小町」だとも。

玉三郎

若きユルスナール(ベルギーの貴族の血筋)

 それでも、ほんとうの意味での日本精神とのコミュニケーションはなかったのだ。
西洋人の多くはここで苛立つ。外国語を話しているような日本の自称知識人は何も内実を語らない、こちらからのメッセージは能面のような微笑に吸収されて、跳ね返ってくることさえないのだ。
 にもかかわらず、アカデミーフランセーズ会員は日本滞在をフルに堪能する。

 六本木の高級ホスト・クラブと能舞台で、洗練された異質さを魂の奥底で受け止めたのだ。男が本当の女のように振る舞う、そして客に奉仕するホストクラブ。能という精霊と神々の降り立つ洗練された動きの様式美。
 日本の伝統が内包する両極端を内包した奥行きをユルスナールは味わい尽くしたのだ、多分。

 越えがたい異質さと硬質さを秘めた東京の一夜、ユルスナールはこう書き留めた。

 旅のただ中で、この突然の奇跡が生じ、恩寵が降りてくる。幸福の瞬間というのではない。幸福は、瞬間が集まって成り立つものではないからだ。ただ突然、自分が幸福で満たされているという意識が訪れるのだ

 老人となっても鋭い芸術感性に恵まれた、この特異な精神にあっては、まさに打ち解けあうことがない異質性に取り囲まれていたからこそ、幼児のように幸福感をまとうことができたのだ、と自分は想像せずにはいられないのだ。