『歎異鈔』を書いた唯円はそんな本を書くくらいだから相当に師の親鸞を理解していた。
或る日、こう尋ねた。
「阿弥陀如来はイヤダイヤダと拒んでもお救いくださる。そうなると欣喜雀躍したくなると『阿弥陀経』にありますが、自分にはそれが判りかねます」
唯円は死ぬのはイヤダイヤダと言ってみたのだ。師はなんと答えるのであろうか。
「お前もそうか。実は私もだ」
唯円はたたみ掛けて尋ねた。
「それでは、阿弥陀如来がお救いくださるというのは、実のところどうなんでしょうか」
親鸞はあっけらかんと答えた。
「実は私もよくわからない」
こんな会話を残している宗祖をもつ浄土真宗というはじつに珍しい。そして、好ましいと思う。
狂信性とは無縁であるとまで言いたいが、一向一揆というオージーを思うとそうも書けない。
しかし、日本精神の宝のようなエピソードではないだろうか。