日本人/倭人の刺青の系統史の件

 江戸時代末期に欧米人の耳目をひいたのは鮮やかな刺青であった。例えば、エミール・ギメの写真にその記録が残る。
 不思議なのは江戸時代以前のキリシタン宣教師にたちの記録には刺青のことはほとんど記載がないこと。それを大林太良が論文「入墨の連続と不連続」で指摘しています。
 朱子学のような儒教は身体を傷つけることを不孝と見なしていたので、侍階級は刺青など論外でした。だからこそ、遠山の金さんのような文身奉行が伝説になったのでしょう。
 そもそも歴史を遡ると、縄文期には土偶に見られるように刺青はあったらしい。縄文時代は温暖な時代でもあり裸身で過ごす期間が長く、その裸身に文様を刻むのは普通だったわけだ。

 弥生期になると刺青の考古学的記録は稀になるようです。しかしながら、『魏志倭人伝』では大多数の男は全身に刺青をしているらしいですね。大陸系というよう海人の系統が色濃く出ている。

 男子はおとなもこどもも皆顔に刺青し、身体に文する

記紀」によると刺青の風習は、海人族や隼人・蝦夷や久米などにあったようです。今から300年ほど前の沖縄で英国人ベイジル・ホールは漁民にだけ刺青を見出していました。普通の琉球の民には刺青がないのです(参考:「朝鮮・琉球航海記」 岩波文庫) 


 江戸末期に滞在したエミール・ギメの写真には人足の男性の鮮やかな刺青が写し撮られていました。



 どうやら農耕を主とする人びとには無縁であったらしい。また、天皇家や周辺豪族には刺青をする習慣はなかったようです。歴史を通じて漂泊民の一部や海民に入れ墨は受け継がれていたのだと想像しています。
 となると邪馬台国の人びとの刺青はなんなのでしょうか?
 新井白石の『古史通或問』でも同じ質問がでてました。

 東南アジアの海洋系の民人はどうやら刺青が普通に見られます。つまり、安曇氏のような海人は刺青をしていたと考えることができるようです。
 先の縄文時代の刺青とは異なる流れですね。縄文人=彼らは、しかし、蛇=みずちに対する信仰をもっていたのです。海洋性は縄文人にもあったとしてもいいでしょうね。
 何と言ってもその歴史は長いので、南方系民族との交流や同化もありえたでしょう。

 『三国史』の「韓」の記述では弁韓辰韓は男女ともに刺青をしているのが倭と同じだとしています。←『倭国伝』より
 朝鮮半島人も6〜8世紀までは刺青をしていたようです。儒教がそれを駆逐したのでしょう。

                                                                                                                                                                    • -

ここでの参考文献

 佐原真の遺作&力作で魏志倭人伝の28のテーマごとに最新の考古学知見をまとめている

魏志倭人伝の考古学 (岩波現代文庫)

魏志倭人伝の考古学 (岩波現代文庫)

身体の文化人類学―身体変工と食人

身体の文化人類学―身体変工と食人

刺青とヌードの美術史 江戸から近代へ (NHKブックス)

刺青とヌードの美術史 江戸から近代へ (NHKブックス)