東南アジアの新聞の映画評論が記憶にある。
『千と千尋の神隠し』が大ヒットした日本とはずいぶんと未開な国ではないか、そんな論調であった。
それは正しい。
岩田慶治の宗教フィールドワークが語るように東南アジア諸国には、原始的な信仰が生きている。岩田が報告しているようにピーという霊が住まいのそばに息づく、それがありふれた生活空間なのだ。
そうした信仰がそばにある国のメディアの論調は、正鵠を射ている。未開人のような信仰が身近なのだ。彼らの感想はその環境に由来したのであろう。
彼らからすると公害まみれ技術まみれの日本人が自然神信仰に浸っているのは信じられない光景なのだ。
確かに、ヤオロズの神が、この極東の先進国の住民の心性に蟠踞(ばんきょ)しているのだろう。そうした未開性をそのままに、いきなり先進的なテクノロジーを見よう見まねに体得したのが、日本人というわけである。
八百万の神という無数の神様の仲間にはハクのような名の知れぬ小さな神もおられる。そうしたあえかな神のひそやかな生と死がこのアニメで語られているのだろう。一説によれば、千尋の飾りが光ったラストシーンでハクは消滅したという。
とにもかくにも、腐れガミさまが千尋の懸命の奉仕で健やかな御身となられて、翁の相貌で「善き哉」といわれたもう場面で、ひそかに感じ入るのが、我らの原始心性なのだ。
なにごとのおわすか知らねどもかたじけなさに涙するのだ。それが非理性的で文明開化したけれどもアニミズムをそのままに残留している日本人のアンビバレンツなんだろうと思う。
ハクが今は失われた小さな小さな川=小白川の化身と知るクライマックス・シーンがある。ニギハヤミコハクヌシは川の神であり、失われた自然神でアラミタマ(荒御魂)になる寸前だった。乱開発によりその住処たる川は消え去り、コハクヌシは行き場をなくしたからだ。だが、少女の記憶から再生を果たし、ニギミタマ(和御魂)となられたのだ。
ここで、日本人的な心は、もののあわれと勿体なさを感じ、感涙する。
主人公の千尋はもとは水の女として人柱として川に捧げられるはずだったと言えなくもない。コハクヌシはそれを救い出し、人の世に送りかえした。その善行はコハクヌシが名前を取り戻すことで報いられる。
マータイ女史が大評価したコトノハ「勿体無い」の奥深さがここにある。もったいないとは、そうした自然神への畏れ、かしこまりを感じるこころなのであろう。
それ故、日本語のコトノハのすみずみまで、神道アニミズムは染み付いているのだ。アニメ文化の根にはアニミズムがある。どこかで書いたように「ゆるキャラ」の根っこも神道アニミズムだ。地元から萌えいでた神々の化身(アヴァター)だと思う。
それ故に、『千と千尋の神隠し』はすぐれた神道アニミズムのアニメであると言っても、あながち外れではないだろう。
ハク様(コハクヌシ)の優しさは途方に暮れる千尋を寛解させる。つまり、ようやく涙を流せるほどに人心地を取り戻すことができる。名前を思い出させるシーンだ。言霊ヒーリング。
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