壬申の乱で惜しくも敗れた大友皇子、諡号は弘文天皇の流竄先はあちこちにあるようだが、三河地方のはひときわ凝っている。
ほとんど史跡あつかいになりそうだ。
壬申の乱は応仁の乱や関が原の戦いほど歴史ファンの人気はない。けれども東西の雌雄を決する戦いとしては史上はじめての戦乱である。
天智天皇(中大兄皇子)の息子/大友皇子と天智天皇の弟である大海人皇子=天武天皇の戦いである。古今有数の政略家の息子と戦略家との大いくさであった。
近江王朝側(大友皇子)の善戦むなしく、東国側の兵站線をいち早く掌握した大海人皇子側の勝利となる。大友皇子の行方は『日本書紀』ではどこかで縊れて死んだくらいの扱いである。まあ、なんといっても『日本書紀』は天武天皇の指示で編纂されたのであるけれど。
三河地方の大友皇子の思い入れは、大友皇子陵があるだけではない。岡崎市大友町なるものがある。大友皇子陵は市民公認であるけれども宮内庁も文科省も知らんぷりなことはもちろんであります。
不謹慎極まりないが笑ってしまうのは、大友皇子館跡に東大友公民館があることだ。正確には「大友皇子丸藪之館跡」の石碑のわきに公民館があるだけだ。だが、その公民館は大友皇子の屋敷に見えてしまう。
柳田国男も『流され王』なる論文で大友皇子伝承を扱っているが、大友皇子会館までは知り得なかったし、知っていても扱いはしなかったどう。
ちなみに大友皇子の逃亡地としては、ほかに千葉県君津市と神奈川県伊勢原市が名乗りを上げている。伊勢原市には岡崎城の跡があるのは注目すべきことだ。地名としての岡崎は皇子の系統と関わりがあるかもしれない。
一部の大友皇子逃亡先研究者にとっても問題作『流され王』を含む論集
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