史家として東日本的なものと西日本的なものとの対比を考えたのは網野善彦だろうか。
古くは縄文系と弥生系の対比から始まる。
弥生系は大陸由来の渡来人の系列であり、縄文系は土着的な古くからの住民の血筋であった。『倭人争乱』などによれば3世紀後半にそうした大乱があったとする説が唱えられている。
その後の日本史では幾度か、西と東の対決がある。壬申の乱が有史の記録の最初となる。
壬申の乱では大友皇子が旧勢力と渡来系を代表し、大海人皇子は地方の新興勢力を巻き込んでいるかのような図式である。このいくさは17世紀の関が原合戦に対比されるようになる。
次いで源平争乱は明確な構図で東西対決が起きた。平氏は九州から中国地方の海運と豪族たちをバックにして戦い、源氏は関東勢を主力とする騎馬兵力でそれを打ち破っている。鎌倉時代は関東勢力が権力の中枢を担った。
鎌倉北条氏の滅亡の物語りでもある太平記の時代は西側の悪党の反抗から開始される。
南北朝時代から室町時代は構図が崩れているが、西側の反旗と足利政権による東西の融和で短い安定期を迎える。
応仁の乱は全国規模での争乱である。ただし、西軍の山名宗全と東軍の細川勝元は西日本や東日本の代表ではなかった。
戦国期を平定したのは尾張・三河勢力である。しかし、その勢力の中心は近江、京都、大阪から江戸へとめまぐるしく移転している。
関が原合戦こそが東西対決のモデルとなっている。ほぼ東西の地割で二つの勢力が衝突した。結果は東日本勢力の勝利である。
逆に明治維新は西国、九州と四国中国地方が開化のパワーをばねに東日本の権力構造と封建制を打ち壊すことになる。
西と東の対決は帝都東京と民都大阪、巨人と阪神、邪馬台国の九州説と大和説などと多方面での二項対立を近代日本で演じてきている。また、フォッサマグナや味つけや方言の差などは東と西の区分けに彩りを添えているのも見逃せない。
もともと東西の長い列島という地理的な構造から文化や風俗、慣習に微妙な差異を持つようになった。それは西と東というような単純な図式では測りがたいものである。
それを多変量の主軸として扱うことは出来るであろう。
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