新興国の製造パワーの評価

 新興国の製造業の持続性について考えてみたい。
日本が世界の工場になったのは1950年から1990年台までであろう。それまでの蓄積があった。
教育水準も高レベルだった。工作機械を自作し、その航空機や造船力で先進国と数年間も激闘したのだ。
その開発力を民需に振り向け、アメリカの科学技術と製造ノウハウを吸い込んで、「世界の工場」となった。
 重工業だけではなく、精密機械や電子計算機でも頑張った。
幾多の独自技術と製品も生み出した。小型で高品質な製品が特徴だろう。
それは生産技術面に偏っていたかもしれないが、ウォークマンSDRAMやハイブリッドエンジン、新幹線などは先導的で斬新なモノだった。
 さて、それでは新興国はどうだろう。東南アジアは資本注入と技術移転を受けて21世紀になってから世界の工場に向けて大きく変貌したといえる。
 それが、日本が荒廃のなから立ち上がりとどうも様子が違う。
20世紀後半、エリート先導型で自国の工業化を図ろうとしたが、うまく行った形跡はあまりない。
ナイポールの『イスラム再訪』からインドネシアの事例をまとめてみよう。
 スハルト政権は90年台にN250というプロペラ機を開発した。天才といわれたハビビ技術研究大臣とその直属のエリート技術者たちの成果である。上記の本でイマドゥディンという大学教授から技術官僚になったムスリムが登場している。
 これは肝いり国家プロジェクトで何十億ドルもの開発資金が投じられた。
その痕跡はいまでも残存する「インドネシアン・エアロスペース」だ。
 航空機産業はインドネシアを支える企業とはなりえていない。
なぜ、うまくいかなかったのか? おそらく技術革新や生産革新を行う機運がなかった、それも中堅以下の技術者層にそうした動機がなかったことに起因するというのが、自分の仮説だ。
 そして、こんなことを20世紀中に繰り返していた東南アジアの大半なのだろう。

 もう一つの事例は中国だ。
 今や名実ともに世界の工場ではある。だが、そこで繊維工業がどう変貌したかが注目される。日本では戦後まもなく、ニチボウや東洋紡が格安な製品を世界に輸出していた時期がある。それは欧米から技術移転があったにせよ、見様見真似から即座に脱皮した技術開発を実践していたからだろう。
 さて、中国の繊維業界はどう変化した?安かろう悪かろうでは無くなっている。ユニクロの縫製をみればそれは分かる。だが中国で紡績機械はどう独自に進化しただろう?
 寡聞にしてそうした事例を自分は知らない。

 こうしたわずかな事例で推測すると、製造業の持続的な拡大というのは技術革新を基礎から生産場面までどこかで継続的に遂行することで成立する。ところで、東南アジア大半や中国では、それが身についているかどうかが怪しいのだ。
 あくせくと現場で開発のプロセスと試作を何度も反復する、そうした中堅以下の層(それはサプライヤーも含む)が存在していなければ、技術は停滞するのだと考える。天才的な科学者や技術者だけでは工場は動かない。
 ITはそうでもないところが面白い。優れたアイデアアルゴリズム、そして実行力と人間関係があれば
世界に波及する製品やサービスは可能だ。インドはそれを体現しているし、中国もそうだ。そうした天分の人材には事欠かないのだ。

イスラム再訪〈上〉

イスラム再訪〈上〉

インドvs.中国―二大新興国の実力比較

インドvs.中国―二大新興国の実力比較

 マックス。ウェーバーエートスというものが産業発展の根底にあるような気がする。インドのカースト制は、製造業の職業理念としてマイナスに働くのではないだろうか。手を使い額に汗して労働するのは格が低いという先入イメージがあり、工場には志しと能力のある労働者が集まらい可能性がある。
 拝火教のタタ財閥のようなヒンズー価値観からフリーなエートスがある集団だけが製造業を成功させられる。
 多くの新興国は現場での献身的な職人を持ちうるか否かで、工業立国できるかどうかの判断がなしうるというのが、最近の感想なのだ。